バイブル・エッセイ(316)贈り物の価値


贈り物の価値
 エスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12:41-44)
 貧しいやもめは、あえて自分が持っていた生活費のすべてを賽銭箱に投じました。もしかすると、何かとてもいいことがあって神への感謝の思いに駆られ、そうせずにいられなかったのかもしれません。あるいは逆に何か大きな困難に直面して神に心から助けを願い、その代償としてそうしたのかもしれません。いずれにせよ、自分を犠牲にするのを顧みないほどの神への愛や信頼をイエスは見抜かれ、それをよしとされたのです。
 賽銭は、たとえて言えば、神様への贈り物のようなものでしょう。その価値は、贈り物の金額や量ではなく、そこに込められた思いにかかっているのです。この数年のあいだにわたしが受け取った贈り物の中で一番うれしかったのは、ある老司祭がヨーロッパ旅行のお土産にとくれた聖母像でした。高さが15センチくらいあり、けっこう重い像です。わたしのことをよく知っているその老司祭は、その像を見たときに「これは片柳が喜ぶだろうと」と直観され、その像を買ってくださいました。そして、長い旅のあいだ、その重い像をずっとスーツケースの隅に入れて運んできてくださったのです。もちろん聖母像もすばらしいもので気に入りましたが、わたしがもっとうれしかったのはその老司祭がわたしのことを気遣い、わたしのために重い荷物を運んでくれたということでした。
 誰かのために自分を捧げ、重い荷物を運ぶことで、わたしたちは誰かに最高の贈り物をすることができます。そのことの究極の模範はイエス・キリストでしょう。エスは人類の喜びを完成するため、わたしたちと同じ重荷を背負ってこの地上で生きてくださいました。そうすることで、父なる神のために、そしてわたしたち一人ひとりのために、ご自身を最高の贈り物とされたのです。
 イエスの生涯は、決して大きな成功や名誉などに彩られたものではありませんでした。むしろ、大工としての、あるいは放浪する宣教者としての貧しい生涯を送られ、最後は人間の目から見れば大失敗以外の何ものでもない屈辱的な死を遂げられたのです。しかし、そのようなつつましい生涯こそが神への最高の贈り物となりました。どんなにつつましい生涯でも、神への愛ゆえにそれを捧げ、生き抜くとき神への最高の贈り物になりうるのです。
 これは、本当に大きな希望だと思います。わたしたちは、もしかすると神のためにこの地上で華々しい宣教の成果を上げたり、功績を残したりすることはできないかもしれません。ですが、今日の福音で読まれたやもめのように、あるいはイエスご自身のように、自分に与えられたすべてを捧げつくすならば、わたしたちは神に最高の贈り物をすることができるのです。わたしたちのこのつつましやかな生涯そのものを、賽銭箱にすべて投げ入れることができますように、そうすることで神をお喜ばせすることができますようにと祈りましょう。
※写真の解説…京都、東福寺にて。