バイブル・エッセイ(318)真理の王


真理の王
 そのとき、ピラトはイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ18:33-37)
 イエスは王としてこの世界にやって来られましたが、その支配は地上の王の支配とはまったく異なったものでした。エスの支配は、力による支配ではなく、真理による支配だったのです。
 今日の福音に出てくるピラトは、力による支配の代表例とも言っていいローマ帝国の総督としてパレスチナに君臨していました。ある意味で王と言っていいでしょう。彼の支配は、軍隊による暴力、人々の貧しさにつけこむお金の力、法律などについての知識の力など、まさに力によるものでした。支配された人々は、その力によって屈服させられ、いやいやピラトに従っていたのです。
 それに対して、イエスの支配はまさに真理による支配です。人々は、慈しみ深さ、正しさ、謙遜さなどイエスが神の御旨のままに生きていた真理に引き寄せられ、喜んでイエスに従ったのです。イエスに魅せられ、従わずにはいられなかったと言ってもいいかもしれせん。力による支配は、人々を無理やりに従わせるけれども、真理による支配は、人々を従わずにいられなくする。それが、両者の決定的な違いと言っていいでしょう。
 では、なぜわたしたちは、真理を生きる人と出会ったとき引き寄せられ、喜んで従わずにいられなくなるのでしょう。それは、まず第一に、真理を生きる人に心のよりどころを見い出すからだと思います。「この人はただひたすら神の御旨が行われること、みんなが幸せになることだけを考えている。そのためならば、自分などどうなってもいいようだ。」誰かと出会ってそう感じるとき、わたしたちはその人を心から信頼するでしょう。そして、その人のそばにとどまりたいと思い、喜んでその人の後に従うのです。
 真理を貫いて生きる人と出会ったとき、わたしたちはその人の役に立ちたいとも思うようになります。「わたし自身は大したものではないけれど、この人の生涯に連なっているかぎりわたしの人生も何か神様の、そして人々の役に立つもの、意味のあるものになるかもしれない。」誰かと出会ってそう感じるとき、わたしたちはその人のために何かをしたい、その人の手足として働きたいと思うようになるでしょう。そして、その人の指示に喜んで従うのです。
 真理を生きぬいている人と出会ったとき、わたしたちはその人のようになりたいとさえ願うようになります。「今のわたしは罪深く弱いけれど、この人に学び、できることならいつの日かこの人のようになりたい。」そう感じられる人と出会うとき、わたしたちはその人の言葉に注意深く耳を傾け、その人の語る言葉の一言さえも聞き漏らさないようにするでしょう。ノートに書き留めておきさえするかもしれません。こうして、わたしたちは真理を生きる人の言葉を喜んで受け入れ、その人の言葉に従うようになるのです。
 イエスは、まさにこのようにして人々を従わせた王でした。エスは、真理を生き抜くことによって、人々を従わずにいられなくさせた王だったのです。わたしたちにも、イエスと同じようなやり方で王として生きる使命、王職が与えられています。
 例えば家庭で、「うちのお父さんは、本当にぼくたちの幸せだけを考えてくれている」、「このお母さんの役に立ちたい」、「言葉をしっかり心に刻みたい」、子どもたちからそう思われるような王になることが、お父さんやお母さんの使命でしょう。あるいは会社であれば、「この人は、私利私欲ではなく、本気で世の中をよくしようと思っている」、「この人の下で働きたい」、「この人の指示に忠実でありたい」、周りの人たちからそう思われるような王になることが、働く人たちの使命だろうと思います。そのような王になることで、わたしたちはわたしたちの周りに小さな「神の国」を実現していくことができるのです。
 なだめたりすかしたり、権力を振りかざしたりして言うことを聞かせているうちは、まだまだ「神の国」は遠いといわざるを得ません。わたしたち一人ひとりが、裏表なくキリストの真理を生きることで王となれるように、その恵みを願いたいと思います。
※写真の解説…京都、嵐山にて。