バイブル・エッセイ(323)喜びの共振


喜びの共振
 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ1:39-45)
 小学生の頃に、ある理科の実験を見てとても驚いたことがあります。その日、先生は音叉というU字型をした金属の道具を2つ並べて机の上に置き、一方の音叉を叩いて「コーン」という低い音を出しました。すると驚いたことに、隣に置かれていた音叉、先生がまったく触っていない音叉が、同じように鳴り始めたのです。「これが、共振というものだ」と先生は教えてくれました。目に見えない音の振動が、空気を伝わって隣の音叉を細かく揺らしたのです。
 マリアの挨拶の声を聞いて、エリザベトの胎内の子が「喜んで踊った」という出来事は、この共振という現象に似ているかもしれません。エリザベトを訪問したとき、マリアの心は、神の子を宿した喜びによって静かに震えていました。その喜びの振動が、マリアの声を通して胎内の子に伝わり、子どもの心を喜びで揺らした。そのように考えると、言葉の意味が分からず、マリアの姿が見えない子どもがなぜ喜び踊ったのか、何か納得できるような気がします。ある人の喜びの響きが周りにいる人たちの心を揺さぶるとき、まわりの人々の心にも同じ喜びが響き始めるのです。胎内の子、洗礼者ヨハネの心が最初に喜びの振動を感じ取ったのは、きっと洗礼者ヨハネがマリアと同じように清らかな心を持っていたからでしょう。
 気を付けなければならないのは、このような心の共振現象を引き起こすのは喜びの響きだけではないということです。いらだちの響き、怒りの響き、悲しみの響き、そのような好ましくない心の振動も他の人の心に響いてしまうのです。暗い顔をして下をむき、ぼそぼそと悲しそうに話す人に会うと、なんだかわたしたちまで悲しくなってしまう。そんなこともよくあります。周りの人を喜ばせるか、それとも悲しませるかは、わたしたちの心にどんな音が響いているかにかかっているのです。
 わたしたちは、マリアと同じように、いつも心に喜びを響かせながら人々に近づきたいと思います。そのためには、まずわたしたち自身が神の御言葉の響きに共振することでしょう。「わたしは主のはした女、御言葉どおりにこの身に成りますように」と言ったとき、マリアの心に喜びが響き始めました。同じように、神の御言葉に心を開き、その響きに身を委ねるとき、わたしたちの心にも静かな喜びが響き始めるはずです。
 神の御言葉に心を開くことによって生まれた響きは、わたしたちが出会う人々、救いを求めてわたしたちのもとにやってくる人々の心を揺さぶり、同じような響き、神と出会ったときだけに生まれる静かな喜びの響きで満たしていくに違いありません。どんなときにも神を愛する喜びの響きに心を震わせ、周りの人々の心に同じ喜びを響かせていく聖母マリアのような宣教者になれるように、神の喜びに響きあう心、マリアのように謙遜で、信頼に満ちた心ををお与えくださいと祈りましょう。
※写真の解説…二輪並んで咲いた山茶花。鎌倉、建長寺にて。