バイブル・エッセイ(326)「神の子」の尊厳


「神の子」の尊厳
 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今すでに神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。(一ヨハネ3:1-2)
 先日、ホームレスの皆さんの越年・越冬支援が行われている東遊園地の一角で、今年亡くなったホームレス、元ホームレスの方々のための追悼式が行われました。ベニヤの板に故人たちの名前を書いたカードを張り、その前に花や餅を供えて、キリスト教の祈りと仏教のお経を捧げるという簡素な集いです。
 式が始まる前、わたしは故人たちの名前が書かれたカードを一枚一枚読んでいました。それぞれの名前の下には、「〇〇公園の植え込みで凍死」、「アパートで発見」、「事故死」、「結核」など、どのような状況でその方が亡くなったかが簡単に記されています。その一枚一枚を読みながら、わたしは「一体、この方はどんな気持ちで最後を迎えたのだろうか」と思って胸が苦しくなりました。
 ですが、もっと苦しい思いをされたのは、天におられる神様でしょう。亡くなった方の一人ひとりが、大切な神様の子どもです。自分の子どもが人々から見捨てられ、人生に意味を見出せないまま孤独な死を迎えるのを見て、神様はどれほどつらく、苦しい思いを味わったことでしょうか。
 ヨハネは、書簡の中ではっきりと「わたしたちは、今すでに神の子です」と述べています。子どもが苦しんでいるのを見て、平気な親はいないでしょう。わたしたちが「神の子」であるとは、もしわたしたちの一人が孤独の中に置き去りにされ、人生の意味を見失って苦しむとき、父である神様も天国で胸が張り裂けるほどの苦しみを味わうということに他ならないのです。
 神様を苦しませないために、すべての人々が「神の子」としての誇りを持って生きられる社会を作っていかなければならいと思います。そのためには、まずわたしたち自身が「神の子」であることにしっかりと受け止め、自分の人生の揺るがぬ土台にすることでしょう。わたしたちは「神を信じる」と言いながら、ともすると仕事やお金、社会的な地位や名誉などに自分の片足を置いている場合があります。それらのものを失って落胆し、自分はもうだめだと思うなら、それはわたしたちが神ではなくそれらのものを人生の土台としていた証拠です。
 「神の子」であるという、その事実以上にわたしたちが誇れるものがあるでしょうか。仕事やお金、社会的な地位や名誉などは誰かによって奪われてしまうことがありえますが、「神の子」としての尊厳だけは誰もわたしたちから奪うことができません。この最も価値のある拠り所、不動の足場に、まず自分自身がしっかりと足をつけたいと思います。
 それができれば、わたしたちは同じ「神の子」であり、兄弟姉妹である隣人たちに関心を持ち、手を差し伸べずにはいられなくなるでしょう。「神の子」としての自覚が強ければ強いほど、兄弟姉妹への愛は強まるのです。大きな試練や困難な状況の中で、自分の人生に意味を見いだせないまま苦しんでいる兄弟姉妹に、「あなたも大切な神の子です」というメッセージを伝えることは、「神の子」としてのわたしたちの使命だと言っていいと思います。
 まず自分自身が「神の子」であることに揺るがぬ信頼と自信を持つこと、そこからすべての人が「神の子」として誇りを持って生きられる社会が始まります。父である神様を苦しませないために、まずわたしたち自身から始めましょう。
※写真の解説…2012年12月29日、神戸・東遊園地で行われた追悼式典の様子。