バイブル・エッセイ(335)顔の様子が変わる


顔の様子が変わる
エスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。(ルカ9:28-36)
 イエスは祈るとき、いつも一人で山に登ります。ところが、このときは数人の、特に信頼のおける弟子たちを一緒に連れてゆきました。よほど重大な識別をする祈りだったからでしょう。では、いったい何を識別するためだったのか。それはおそらくエルサレムに行き、十字架にかけられる時が来たかどうかを確かめることだっただろうと思われます。そのような識別をしている間に「イエスの顔の様子が変わった」ということは、その瞬間に、神の御旨が確かに示されたということでしょう。エルサレムに行き、人々のために自分の命を差し出すことを決意した瞬間、イエスの顔はまばゆく輝き始めたのです。
 神への愛ゆえに、人々への愛ゆえに自分を差し出す決意をした人の顔が輝く、そういうことが確かにあると思います。昔、こんな体験をしました。神学生として、犯罪被害者の支援活動をしていた頃のことです。あるとき、外国に留学中の娘さんを無残な仕方で殺害されたご両親の話を聞く機会がありました。ご両親は激しい怒りと憎しみに燃え、「もし犯人が死刑にならないなら、わたしがこの手で殺す」とさえ言っておられました。最愛の娘を無残に殺された親として、ある意味で当然のことだと思います。ですが、わたしは激しい憎しみに燃えたご両親の暗い顔を見て、「こんなに憎んでは、ご両親の方が心配だ」と思い、ご両親のために祈らずにいられませんでした。
 また別の機会に、逆にご両親を強盗に殺害された娘さんの話を伺いました。娘さんが買い物から帰ってきたら、ご両親が居間で血まみれになって死んでいたということでした。犯人を激しく憎んだとしても、まったく不思議ではない状況です。ところが、その娘さんの口から出てきたのは、まったく意外な答えでした。「確かに犯人はゆるせません。ですが、犯人を殺したいとはどうしても思えないのです」と、娘さんと静かに話してくださいました。その犯人にも子どもがいることを知ったとき、犯人の子どもに自分と同じように親を殺される苦しみを味わわせることはできないと思ったのだそうです。話しいてる娘さんの顔は、どこかすがすがしい光りに包まれていました。犯人の子どもへの愛ゆえに、殺したいほどの憎しみを乗り越えることで、この娘さんの顔にある種の光りが灯ったのだろうと思います。
 憎しみだけに限りません。あらゆることにおいて、何かにしがみついているときわたしたちの顔の表情は暗くなるようです。マザー・テレサはこんなことを言っています。「他のシスターが暗い顔をしているのを見るとき、わたしは心の中で『あの人はまだ何かを手放せないのだな』と思います。そして、そのシスターのために祈ります。」マザーの顔に、いつもすがすがしい光りが輝いていたことは言うまでもありません。神への愛ゆえにすべてを手放した人の顔は、すがすがしい輝きを放ち始めるのです。
 わたしたちも、日々の生活の中で信仰の光りを輝かせたいと思います。そのためにまず、自分自身さえも喜んで差し出すほどの愛をお与えくださいと神に祈りましょう。

※写真の解説…カトリック六甲教会の庭で、今年初めて開花した紅梅。