バイブル・エッセイ(337)父の家で、父と共に生きる


父の家で、父と共に生きる
「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」(ルカ15:11-24)
 このたとえ話を読むとき、わたしはいつも自分を放蕩息子と重ねざるをえません。それは、わたし自身も、これまでの人生の中で数回、この放蕩息子と似た状況に置かれたことがあるからです。
 その中の一回は、大学3年生のときでした。このたとえ話とはちょっと違って、わたしが財産をもらって出て行ったのではなく、父が財産を残して死んでしまったのです。父は先祖代々の農民で、とても質素な生活をする人でした。貧しい生活とさえ言っていいかもしれません。そんな父が亡くなり、わずかですが財産があることがわかったとき、まだ21歳だったわたしは「もう貧乏な生活はたくさんだ。しばらくは、ぜいたくな生活をして過ごそう」と思いました。
 ぜいたくと言っても、田舎の若者が考えるぜいたくなのでたかがしれてはいます。せいぜい、これまでユニクロの服ばかり着ていた服を、思い切って大丸に買いに行ったりとか、外食といえば吉野家松屋でしか食べなかったのを、これまで食べたくて仕方がなかったステーキ・ハウスに行ってみるとか、そのようなことです。わたしとしては、思いつく限りのぜいたくな生活でした。
 父の死後の後片付けなどもあったので、数ヶ月のあいだ大学を休みながら、そのようなぜいたくな生活をしていました。初めは、きれいな服を買ったり、おいしいものを食べたりするのが楽しく感じられましたが、しだいにそのような生活を送るわたしに対する家族や友人たちの目が厳しくなってきました。それに、どんなにおいしい食事をしても、一人ではあまりおいしく感じられませんでした。やがて、「楽しい」という思いはすっかり消えて、誰からも相手にしてもらえない孤独の中で「自分は何をしているのだろう」と思うようなっていきました。その思いが深まり、もう孤独に耐えられなくなったころ、わたしは元の服や食生活に戻り、大学にも行くようになったのです。
 放蕩息子の気持ちも、そのときのわたしの気持ちに似ているのではないかと思います。この息子も、農民の子どもでした。おそらく、かつてのわたしがそうだったように、一切の無駄をゆるさない厳しいしつけを受けたに違いありません。彼もそんな生活にあきあきし、父のもとから離れて、遠い国で飲めや歌えの楽しい日々を送りたいと思ったのでしょう。ですが、結果として彼はすべてを失い、友だちからも見捨てられることになります。「その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた」とか、「食べ物をくれる人は誰もいなかった」という言葉が、彼の置かれた状況を示唆しています。頼みの綱である父にさえ、もう合わせる顔がありません。「息子と呼ばれる資格」さえないと感じられたのです。そのとき彼にとって一番苦しかったのは、食べる物がないということよりも、誰も自分を相手にしてくれない、世界中どこにも自分の居場所がないという苦しみだったのではないかと思います。
 苦しみの極みで我に返った息子は、父の家に帰る決意をします。こんな惨めな自分でも、せめて雇人の一人くらいにはしてもらえるだろうと思ったからです。ところが、父は彼の姿を見ると遠くから駆け寄り、彼を抱きしめました。そして、彼のためによい服、指輪、履物をを持ってこさせたのです。父のこの行動は、少し意外に思えます。空腹のあまり痩せ細った息子が、よろよろと歩いてくるのを見れば、まず最初に食べ物や飲み物を持ってこさせるのが普通でしょう。ですが、父は息子の外面よりも、むしろ内面にある苦しみ、自分はもう息子と呼ばれる価値がないと感じる苦しみに気づき、自分の息子としてふさわしい服、息子であることを証する指輪、履物などを与えることで、その苦しみを癒したのです。息子の心を癒した後、父は、空腹を満たすための食事を準備するように命じました。
 このたとえ話は、本当の幸せがどこにあるのかをわたしたちに教えてくれるように思います。本当の幸せは、遠い国の華やかな生活にはありません。本当の幸せは、父の家で、父から与えられた使命を果たし、父と共にいることの中にこそあるのです。神が準備してくださった場所で、神から与えられた使命を果たすことで、神としっかり結ばれて生きる。それこそが、本当の幸せなのです。
 見かけの華やかさ、楽しげな雰囲気に欺かれて、父の家から迷い出てしまわないように。父との絆を自分から断ちきって、寄る辺のない惨めさを味わうことがないように、本当の幸せがどこにあるのかをしっかり胸に刻みたいと思います。