バイブル・エッセイ(346)雲の中へ


雲の中へ
 使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒1:6-11)
 真っ青な空に向かって、ぐんぐん高く昇っていくイエス。聖書を読みながら、イエスはそのときどんな気持ちだっただろうかと想像してみました。
 空を飛ぶというと、飛行機に乗るときのことが思い出されます。飛行機が滑走路を離れ、ぐんぐん空高くに上がっていくときはとても気持ちがいいものです。ですが、やがて雲が現れます。その瞬間からわたしにとって試練が始まります。気流に巻き込まれたりして揺れるたびごとに、生きた心地がしなくなるのです。わたしは一刻も早く雲から出るようにと、ただそれを願って過ごします。やがて、雲がしだいに薄くなり、辺りが明るくなってきたかと思うと、飛行機は太陽の光に満たされた美しい世界に出ます。成層圏に出たのです。
 そのようなことを思い出しながらイエスの姿が「雲に覆われた」という場面を読むと、つい、「ああ、お気の毒に」という気持ちになります。もちろん、この雲は神様が送って下さった雲ですから普通の雲とは違うでしょうし、イエスがこの雲を恐れることはなかったでしょう。ですがいつまで続くか分からない、つかみどころのない雲の中を進んでいくのは、イエス様にとってもやはり一つの冒険だったろうと思います。エスは、この雲の向こう側におられる父なる神を信じ、地上を振り返ることもなくまっすぐ天に昇って行かれました。そして雲を抜けたとき、イエスは地上では想像もできないほどまばゆい光に包まれた世界、「神の国」に出たのです。
 雲を抜けるという体験は、もしかすると、もっと明るい世界へと出るために必要な体験なのかもしれません。わたしたちの人生でも、聖霊の力に満たされて順調に上がっている思っているときに、急に雲が現われることがあります。思いがけない病気や事故、争い事などによって、いつまで続くかわかない、どこに向かっていくかも分からない雲の中に呑み込まれてしまうことがあるのです。ですが、この雲の向こうには必ず「神の国」が待っていると信じて疑わず、振り向いたり姿勢を崩したりしなければ、きっといつか雲を抜けるときが来ます。そのときわたしたちが見るのは、これまで見ていたのよりさらに明るい、神の愛の光に満たされた世界であるはずです。
 そのような雲を抜けながら人生を過ごし、この地上で果たすべき全ての使命を果たし終えたとき、わたしたちはついに天国へと召されます。そのときもきっと、「死」という避けがたい雲の中に吸い込まれるような体験をすることになるでしょう。ですが、何も恐れる必要はありません。イエスはすでにその雲を通って天に上げられたのです。その雲の向こう側で、イエスは両手を広げてわたしたちを待っていてくださるでしょう。そのことを信じ、恐れず、姿勢を崩すことなく、まっすぐ天に召されていきたいものだと思います。
※写真…青空にぽっかり浮かんだ白い雲。福島県南相馬市にて。