祈りの小箱(69)『全人類を救うための苦しみ』


『全人類を救うための苦しみ』
 教会には、年齢を問わず、心の病で苦しんでいるという方がたくさん訪ねて来られます。ある日、老司祭のもとに、30年以上も心の病で苦しんでいるという方が訪ねてきました。がんばって勉強し、子どもの頃から思い描いていた夢の通り教師になったけれど、その数年後に心の病を発症。それからは、ずっと入退院を繰り返しているとのことでした。結婚もできないまま年齢が高くなり、テレビだけを心のなぐさめに孤独な日々を過ごしていると嘆いたあと、その方は老司祭に質問しました。「わたしの人生には、一体どんな意味があるのでしょう。」聞く者の心を抉るような、悲痛な問いかけでした。
 老司祭はその言葉を静かに受け止め、慈しみのこもった温かな眼差しでその方をじっと見つめながらこう言いました。「意味はあります。あなたはイエスと共に人類の罪を担ったのです。あなたの苦しみは、全人類を救うための苦しみなのです。」その言葉を聞いて、その方は涙をこぼしておられました。そして、「心がすっかり軽くなりました」と言って帰って行かれたのです。
 確かに、心の病で苦しんでいる方とお会いすると、現代社会が生み出す歪みや醜さをを、心の純粋さゆえに一身で引き受けてしまっているように感じることがよくあります。イエスが十字架上で人間の罪を背負ったように、その方は、病を通して人類の罪を背負った。そう言っていいような場合さえあります。心の病を負った方々は社会から疎外されてしまいがちですが、実はその方々が背負っているのはわたしたち自身の罪なのです。聖書の次の言葉は、心の病を担った方々にもぴったり当てはまるように思えます。
「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。」(イザヤ書53:4)
 心の病を担った方々の苦しみが、人類の罪の苦しみだとすれば、その意味は明らかです。その苦しみは、全人類を救うための苦しみなのです。なぜそうなるのか、それは誰にも分かりません。ですが、人類の罪を背負って十字架につけられたイエスの死と復活が、そのことを明らかに証しています。わたしたちの罪を背負って「十字架」を担われたすべての方のために、心から祈らずにはいられません。
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