【フランシスコ教皇の言葉】


フランシスコ教皇の言葉
■説教・メッセージから■
12月7日(土)信徒評議会総会
「福音宣教は、人間同士の結びつきを必要とするもの、神との人格的な出会いへと導くものです。それゆえ、インターネットだけ、技術だけでは不十分なのです。」
「インターネット上に、教会が存在する必要はないということではありません。それどころか、存在することは絶対に必要です。多くの人々、特に若者たちにとって生活環境の一部のようになったインターネット上に、教会は存在する必要があるのです。生きることの意味への抑えがたい問いを呼び覚まし、その問いの答えである神へと導くために。」
12月11日(水)一般謁見
「神の裁きは、日々、私たちの生活の中で起こっています。キリストの教えにどれだけ忠実であるか、キリストに倣ってどれだけ兄弟姉妹に奉仕しているかによって、私たちは裁かれているのです。」
使徒的勧告 “Evangelii Gaudium”から■
「福音の喜びは、イエスと出会ったすべての人の心と生活を満たしてゆきます。イエスからの救いの申し出を受け入れる人は、罪や悲しみ、内的な虚しさや孤独から解放されるのです。キリストのうちに、喜びは常に新たにされます。」(1)
「自己満足に陥っているけれども虚しさを感じる心や表面的な快楽の熱心な探求、鈍らされた良心から生まれる疎外感や怒りこそ、消費主義によって広められた今日の世界の危機です。私たちの内的な生活が自分の利益や関心の追求だけになるとき、他者のため、貧しい人たちのためのスペースはなくなります。神の声はもはや聞こえず、愛の静かな喜びは感じられず、善いことをしたいという望みも消えていきます。」(2)
「すべてのキリスト教徒に、イエス・キリストと新たに親密な出会いを体験するよう、少なくともキリストが私たちと出会えるように心を開くよう勧めます。イエスに向かって一歩前に踏み出せば、イエスがすでにそこにいること、両腕を広げて私たちを待っていることを知るでしょう。」(3)
「神が私たちをゆるし疲れるということはありません。神の恵みを探し求めるのに疲れてしまうのは、私たちなのです。」(3)
「無数の条件が満たされない限り幸せになれないかのように振る舞い、言い訳をしたり、不平をこぼしたりする誘惑に駆られることも時にあります。ですが、私が人生の中で見た最も美しく、自然な喜びの表現は、わずかなものしか持たない貧しい人々の間にありました。」(7)
「私たちは、倫理的な選択や高邁な理想によってキリスト教徒になるのではありません。私たちの人生に新たな地平を開き、確かな方向性を示す一つの出来事、一人の人物との出会いによってキリスト教徒になるのです。」(7,ベネディクト16世の言葉からの引用)
「私たちは、人間的なものを越えたとき、私たちの存在の完全な意味に到達するため、神によって自分自身を越えさせていただくとき、真に人間的になるのです。」(8)
「メッセージの中心は、いつも同じです。神はその無限の愛を、十字架に付けられ、復活したイエスにおいて現したということです。」(11)
「喜びの根源に戻ろうと努力するたびに、福音の初めの新鮮さを取り戻そうとするたびに、新たな創造力が道を開き、異なった形や表現、より雄弁なしるしや言葉、現代世界のための新しい意味づけが生まれてきます。真の福音宣教は、どんなときにも新しいのです。」(11)
教皇様のツイート■
12月6日(金)
「十字架は、真の愛の代償です。主よ、十字架を受け入れ、担うための力を私たちにお与えください。」
12月7日(土)
「若者たちよ、あなたの才能を福音宣教に捧げなさい。創造力を発揮し、惜しみなく愛を注ぎなさい。」
12月9日(月)
「誰かが助けを求めているのに気付いたら、立ち止まることができるでしょうか。この世界にはたくさんの苦しみと貧困があります。立ち止まって助ける『よきサマリア人』が必要です。」
12月10日(火)
「私たちの母、マリアよ、私たちが暗闇や困難、はっきりとした敗北を味わっていときに、どうぞ支えて下さい。」
12月12日(木)
「喜びのない教会など考えられません。イエスの名をすべての人に告げる、それこそが教会の喜びです。」