バイブル・エッセイ(380)『鳩のように聖霊が降る』


鳩のように聖霊が降る
 ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(ヨハネ1:29-34)
 ヨハネは、聖霊が「鳩のように」降り、イエスの上にとどまったと言います。「鳩のように」とはどういうことでしょう。聖霊が鳩になって舞い降り、イエスの頭に止まったということではないと思います。
 鳩と烏の飛び方に大きな違いがあることをご存知でしょうか。烏は大きな羽をたくみに使って滑空します。羽の動きは最小限です。それに対して鳩は、発達した胸の筋肉を使って羽をバタバタさせて飛ぶのです。鳩が飛んでくると、大きな羽音がするのですぐに分かります。群れで飛べば、それこそ嵐のようです。そのことから考えると、「鳩のように」聖霊が降ったというのは、きっとはっきりと目に見える形で、音さえ立てながら、激しくイエスの上に降りてきたということでしょう。それなら、聖霊は激しい風、炎の舌のようにやってくるという使徒言行録の記述とも符合します。
 聖霊がやってくるとき、それがはっきりわかるというのは確かだと思います。絶望的な暗い気持ちで教会にやって来たけれど、祈っているうちに急に心が明るくなり、喜びと力が湧き上がってきた。そんな体験をした方は多いでしょう。それは、明らかに聖霊が降りてきたしるしです。聖霊の存在が外に感じられることもあります。目に見えない何ものかの力におおわれ、全身が温もりに包まれてゆくような体験をすることもあるのです。聖霊がやって来るとき、心の中から、あるいは外側から、自分の力ではない何かが働きかけているのがはっきりわかるのです。
 誰かに聖霊がとどまっている場合にも、目や耳で感じられるほどはっきり分かることがあります。たとえば、輝くような澄みきった笑顔。エゴとか自己主張のようなものがまったく感じられない、そこにあるのは愛だけと思えるような笑顔を見たとき、わたしたちはそこに人間を越えた力の気配を感じます。そんな笑顔は、その人が聖霊で満たされている明らかなしるしなのです。「人間はフィラメントのようなもので、聖霊という電気が通ると光る」と表現した人がいますが、まさにその通り、聖霊が降った人の顔は喜びと安らぎで光り輝くのです。
 あるいは、たとえば温もりに満ちた優しい声。相手へのいたわりに満ちあふれていて、その人の愛を疑いようがないような声で語りかけられたとき、わたしたたちはそこに人間を越えた力の気配を感じます。そんな声は、その人が聖霊で満たされている明らかなしるしなのです。「キリストは光で、聖霊は温もり」と表現した人がいますが、キリストの光を受けて温められた人の発する言葉には温もりがあるのです。
 「霊が降ってある人にとどまる」というのは、きっとそういうことでしょう。イエス聖霊の力が注がれたとき、その顔は聖霊によって澄んだ輝きを放ち、その声は温もりと優しさに満たされたのです。ヨハネは、それを「見た」のでイエスこそ神の子だと証しました。
 聖霊が降るなら、わたしたちの顔も輝き、わたしたちの声も温もりと優しさに満たされることでしょう。そして、わたしたちを見た人々は、人間を越えた大いなる力の働きを感じ取るに違いありません。「主の洗礼」の場面では、イエスが遜って神の前に跪き、自分のすべてを神に委ねたときに聖霊が降りました。わたしたちも遜って神に身を委ね、心を開いて聖霊を待ちたいと思います。
※写真…大阪城公園の鳩。