バイブル・エッセイ(426)『使命に目覚める』


使命に目覚める
 「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(マルコ13:33-37)
 「目を覚ましていなさい」と、イエスは3度繰り返して言いました。主人から与えられた使命を忘れ、眠りこけているところを見られないようにというのです。主人の期待を裏切り、主人を悲しませてはいけないということでしょう。目を覚ましているとは、寝るなということではなく、いつも主人から与えられた使命を忘れず、その使命に忠実に生きるということなのです。
 使命に目覚めるということがあります。例えば、アッシジのフランシスコは、大金持ちの息子でしたが、あるとき自分の使命に目覚めて貧しい人々のために生涯を捧げました。イグナチオ・デ・ロヨラは、貴族の息子で軍人でしたが、怪我をきっかけとして自分の使命に目覚めました。聖人たちを例に出さなくても、身近でもそのようなことはよくあります。たとえば、わたしが知っているあるフリー・スクールの先生は、もともと名門と呼ばれる学校の教師でした。名門校での教師としての生活はやりがいもあり、誇らしいものでもあったのですが、あるときから彼の心に「このままでいいのだろうか。これが本当にすべきことなのだろうか」という思いが湧き上がってきたそうです。そんなある日、自分の受け持ちの子どもが登校拒否になったことをきっかけに、彼は自分が本当にしたいのは、学校に来られなくなった子どもたちに寄り添うことだと気づきます。そして、学校をやめ、自分でフリー・スクールを始めたのです。苦しんでいる子どもたちに寄り添うという自分の使命に目覚めたと言っていいでしょう。あるいはたとえば、ある神父さんは、もともと大きな会社で有能な営業マンとして活躍していたそうです。しかし、会社から与えられたノルマに追われ、くたくたになって働いているうちに、自分の本当にすべきことは他にあるのではないかと思うようになっていきました。自分の使命は、暮らしをよくすることではなく、人々の心を支えることにあるのではないかと思うようになっていったのです。そして、会社を辞め、神学校に入りました。神から与えられた自分の使命に目覚めたと言っていいでしょう。
 世間的に考えれば、名門校で教えたり、大企業で働いていたりする方がいいに決まっているでしょう。おそらくフリー・スクールの先生も神父さんも、初めはそう考えたに違いありません。ですが、繰り返し浮かんでくる、「本当にこれでいいんだろうか」という疑問を振り払うことができなかったのです。この疑問こそ、神様からの呼びかけだったと考えていいと思います。「本当にこれでいいのだろうか」という疑問を通して、神様は「あなたの本当の使命に目覚めなさい」と、わたしたちに呼びかけるのです。
 わたしたちは、日々の生活の忙しさに追われ、自分の本当の使命を忘れてしまうことがないでしょうか。忙しい日々の中で、「本当にこれでいいんだろうか」という疑問が心に浮かんできたら、それこそ神様の招きだと思います。使命を忘れて眠りこけているわたしたちに、神様が「使命に目覚めなさい」と呼びかけているのです。そんなときには、神様の呼びかけに答え、自分は何のためにこの仕事をしているのか、本当にすべきことは何なのかを振り返るようにしたいと思います。
 主人である神様は、わたしたちが自分勝手なことをしているのを見ても喜びません。どんなに頑張ったとしても、神様よりも世間体や楽な暮らしに執着し、使命をなおざりにしているなら、神様は喜ばないのです。主人である神様は、しもべが主人から与えられた使命を忠実に果たしているところを見るときにだけ喜ばれます。神様がいつ来られても、使命に目覚め、使命を忠実に生きるわたしたちの姿を見ていただけるようにしましょう。
※写真…山陽小野田市、焼野海岸の夕景。
★先週のバイブル・エッセイ『家庭から始まる愛』を、音声版でお聞きいただくことができます。どうぞお役立てください。