バイブル・エッセイ(753)最後の日まで


最後の日まで
「人の子が来るのは、ノアの時と同じである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタイ24:37-44)
 世の終わりがどのようにやって来るかが、ノアの洪水を例にして語られた箇所です。洪水がやって来るまで、人々は「何も気がつかなかった」とイエスは言います。人々は、明日も、あさっても今日と同じ日がやって来ると信じて疑わず、漫然と日々を過ごしていたのです。ですが、ある日、突然に洪水がやって来てすべて奪っていきました。世の終わりも、そのように突然やって来るのだから、いつも「目を覚ましていなさい」というのです。
 世の終わりが近いうちにやって来るとわかったら、わたしたちはどう行動するでしょう。わたしが知っているある信者さんは、とても熱心な学校の先生でした。授業の準備を完璧にするだけでなく、生徒のために絶えず小テストを行い、それを丁寧に採点していましたから、一日のほとんどの時間を生徒のために捧げていたと言っていいでしょう。生徒たちからも信頼され、好かれていました。
 そんなすばらしい先生が、40代である日突然、癌を宣告されたのです。難しい癌で、もっても半年だろうということでした。そんなとき、わたしたちだったらどうするでしょう。もしわたしだったら、残りの人生に悔いを残さないようにと仕事を辞め、おいしいものを食べたり、旅行をしたり、欲しい物を買えるだけ買ったりするかもしれません。ところが、彼は仕事を最後まで続けることを選びました。一通りの治療を終えて退院すると、亡くなる直前まで教壇に立ち続けたのです。病床についてからも教師であることをやめず、意識不明になる直前までテストの採点を続けていたそうです。
 自分の命があと半年とわかったとき、彼は神様から与えられた自分の使命を最後まで果たし抜くことを選びました。愛する生徒たちや家族のために、最後まで働き続けることを選んだのです。与えられた使命をすべて果たし終えた彼は、まるでマラソンを走り切ってゴールのテープを切るランナーのように、天国に入ったに違いないと思います。神様は、すべての使命を立派に果たした彼を抱き留め、栄光の座へと案内したことでしょう。神様から与えられた使命を、最後の最後まで果たし抜いて天国に入る。それこそ、キリスト教徒としての理想的な最後の迎え方だと思います。
 世の終わりは、実際、いつやって来るかわかりません。もしかしたら明日かもしれないし、ひょっとしたら今日かもしれません。もし明日、世の終わりがやって来ると告げられたなら、わたしたちは一体何をするでしょうか。それぞれが考えてみる必要があると思います。神様から自分に与えられた使命、最後の瞬間まで果たし続けるべき使命は、いったい何なのでしょう。残された一日をそのために使ってしまっても悔いがないと思えることは、いったい何でしょう。
 いつ終わりが来てもいいように、「目を覚ましていなさい」とイエスは言います。神様から与えられた使命に目を閉ざしてはいけない。いつも自分の使命を自覚していなさいということです。自分に与えられた使命を見分けるための知恵と、その使命を最後まで果たし抜くための力を神様に願いましょう。