バイブル・エッセイ(792)隠された幸せ


隠された幸せ
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。(ヨハネ2:13-22)
「わたしの父の家を商売の家としてはならない」とイエスは言います。神殿は、主である神の思いが行われるべき場所、愛によって支配されるべき場所。そこで、人を欺き、私利私欲を肥やすようなことをしてはならないということでしょう。神の住まいであるわたしたちの心にも、同じことが当てはまるでしょう。愛以外のもの、自分さえよければいいと考え、誰かを犠牲にして私利私欲をはかるような考え方は、注意深く取り除いてゆく必要があるのです。
 私利私欲を離れて生きる。利害損得を考えずに誰かのために奉仕するということは、人間の目から見て愚かなことに思えます。ですが、パウロの言う通り、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」のです。インドにいたころに、こんな話を聞いたことがあります。イエズス会が運営する一つの学校に、いつもぼろぼろの服を着て、質素な生活をしている神父がいました。お金持ちがたくさん集まる有名校にあって、その人の存在はひときわ目を引き、陰であざ笑う人たちもいたそうです。気の毒に思って服をプレゼントする人もいましたが、その神父さんは、「わたしにはまだ、着る物がある」と言って、服のない人たちに上げてしまうのです。すべてを神に委ね、ただ与えられた教育の仕事だけに熱意を注ぐ、そんな神父さんでした。その神父さんがだいぶ歳をとったある日、学校中を驚かす出来事が起こりました。黒塗りの高級車で、大統領がその神父に会いに来たのです。まだ選ばれたばかりのその大統領は、神父の教え子でした。大統領は、相変わらずぼろぼろの服を着た神父の前にひれ伏して言いました。「あなたの教えのお陰で、今日のわたしがあります。」人間の目には愚かに見えたこの神父さんの中にこそ、実は世界を動かすほどの知恵が隠されていたということでしょう。
 利害損得だけで生きるのは、実はそれほど賢くないのかもしれません。「この人は、利害損得だけで生きている」と明らかにわかるような人に、喜んで従う人など誰もいないでしょう。自分を越えた何かのために、自分の人生を捧げている。そう思える人だからこそ、「この人に協力したい」と思う人たちが現れるのです。
 一方で、この神父さんは、大統領がやって来ても、まったく動じず、貧しい人たちを優しく迎え入れるときとまったく同じように迎え入れたそうです。利害損得を離れて生きている人は、地上の権威にも左右されることがないのです。この神父さんにとっては、「教え子が会いに来てくれた」ということだけが喜びだったのだろうと思います。利害損得や、権威、名誉などにまったく左右されることなく、ただ愛の中で生きたこの神父さんこそ、本当に幸せな人だったのではないかとわたしは思います。
 自分の利益を一切考えず、苦しんでいる誰かのために尽くすことは、人間の目には愚かに見えるかもしれません。ですが、その愚かさの中にこそ、本当の幸せが隠されている。何よりも、愛を最優先に考えることこそが、神の知恵なのだということを忘れないようにしたいと思います。