バイブル・エッセイ(481)目をしっかりと開く


目をしっかりと開く
「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ21:25-28,34-36)
 「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」とイエスは言います。目を覚ましていなさいとは、自分の世界に閉じこもって目を閉ざすことなく、やって来られるイエスを迎えるためにしっかり目を開いていなさいということでしょう。2つの意味で、わたしたちはいつも目をしっかり開いている必要があると思います。
 一つは、苦しみの中でこそしっかり目を開いている必要があるということです。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」と言われているように、エスは天地が崩れるほどの苦しみの中でこそ現われます。だから、苦しみに向かってしっかり目を開いている必要があるのです。
 大地が崩れ、太陽や月が落ちてくるような世の終わりはなかなかやって来ないと思いますが、自分にとってはそれと同じと感じられるような体験をすることはあります。これまで当たり前と思い、すっかり頼り切っていたものが突然なくなるような体験。たとえば、この人だけは決してわたしを見捨てることがないと思っていた相手から、突然別れ話を切り出される。自分はこの年齢だからあと何十年かは生きられるだろうと思っていたのに、ある日突然、難しい病気にかかってしまう。そのようなとき、わたしたちはまるで天地が崩れたような気持ちになり、「もうだめだ」と思って自分の殻の中に閉じこもってしまいがちです。
 ですが、そんなときにこそ、イエスはやって来ます。自分が頼りにしていたものがなくなるということは、つまりイエスを頼るしかなくなるということなのです。これまで友だちや配偶者、自分の能力、健康などイエス以外のものに頼っていた人は、そこで初めてイエスと真剣に向かい合う機会を与えられることになります。「もうだめだ」と目をつぶるのではなく、イエスをしっかり見つめて「あなたに全てをお委ねします」と祈るなら、そのとき、わたしたちは地上のものへの執着から解放され、まったく新しい人生を生きるための力を与えられることでしょう。
 もう一つは、日々の生活の中で誘惑の罠に陥ることがないように、しっかり目を開いている必要があるということです。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」と言われているように、日々の生活の中で、現実に目を閉じてはいけないのです。「このくらいは、まあだいじょうぶ」と思ってよくないことに目をつぶっているうちに、気が付いたら破滅が目の前に迫っているということもあります。現実に目を閉じてよくないことをし続けるということは、まるで自分の目に「このくらいは、まあだいじょうぶ」という目隠しをして、断崖絶壁に向かって突き進んでいるようなものなのです。人生の旅路のあちこちで、怒りや憎しみ、不安、絶望が、大きな口を開けて私たちを呑みこもうとしています。無事にイエスのもとまでたどり着くには、いつもしっかり目を開けている必要があるのです。
 この待降節のあいだ、苦しみのときこそ解放のときと信じて、目を開き続けることができるように。「このくらいはだいじょうぶだろう」という目隠しを捨て、イエスの言葉に謙虚に耳を傾けることができるように祈りましょう。