バイブル・エッセイ(559)「キリストの平和」


「キリストの平和」
 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」
 明日は終戦記念日カトリック教会は広島原爆の日から明日までを平和旬間とし、日々、平和のために祈っています。ところが、今日の福音でイエスは、「わたしは地上に平和をもたらすために来たのではない。むしろ分裂だ」と言います。いったいどういうことでしょう。イエスは、「平和の君」ではないのでしょうか。エスが言う平和とは、いったい何なのでしょう。
 わたしたちは、いま自分が平和な時代に生きていると思い、平和に感謝して祈ることさえあります。ですが、果たしていまの時代は本当に平和なのでしょうか。確かに、日本はいま戦争をしていません。ですが、目をアフリカやアジアの国々に向ければ、そこにはたくさんの戦争が存在し、多くの人々が苦しんでいます。日本だけが平和なら、それでよいということにはならないでしょう。わたしたちの時代は、全体として見たとき、決して平和な時代ではないのです。日本の国内でさえ、たくさんの人たちが社会の片隅に追いやられ、苦しんでいます。自分たちが平和であったとしても、その陰でたくさんの人たちが苦しんでいるなら、その時代は決して平和な時代ではありません。
 一部の人々の繁栄の陰で、片隅に追いやられ、抑圧されている人たちが反乱を起こしたとしましょう。それを軍事力で押さえつけ、黙らせることを平和と呼べるでしょうか。抑圧された貧しい人たちがいる限り、その世界は決して平和な世界ではないと思います。「経済原理」に基づいて貧しい人々から合法的に資源や食料を略奪する世界、子どもたちが食べるものもなく、医者にかかることもできずに死んでゆく世界は、決して平和な世界ではないのです。
 キリストが願う平和とは、すべての人が「神の子」として、人間らしく幸せに生きられる世界です。軍事力や経済力で貧しい人たちを押さえつけ、その人たちの犠牲のうえに成り立っている世界、一部の人たちだけにとって都合のいい世界は、決して平和な世界ではないのです。もしわたしたちがいまの時代を平和な時代だと思い込み、この状況を守ることが平和を守ることだと勘違いしているなら、そのような偽りの平和は壊されなければなりません。「わたしは地上に剣をもたらすために来た」とイエスが言うのは、そういう意味だと思います。エスは、偽りの平和を壊し、真の平和をこの世界に実現する方なのです。
 これは、家庭や教会、あらゆる人間の共同体に言えることです。自分にとって都合がいい状況だったとしても、その陰で家族の中で誰かが泣いているなら、その家庭は決して平和ではありません。ご主人の仕事のために妻が犠牲になっている。両親の仕事のために子どもが犠牲になっている。そのような状況は決して平和ではないのです。家族のすべてが、人間らしく幸せに生きられてこそ平和なのです。まず身近なところにある不正や抑圧を取り除くことから、世界の平和を始めてゆきましょう。