バイブル・エッセイ(779)愛の響き


愛の響き
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」(ヨハネ10:1-5)
「羊は、羊飼いの声を聞き分ける」とイエスは言います。どんなに賢い羊でも、人間が話している言葉の意味はわからないでしょう。ですが、声を聞き分けることはできます。言葉に込められた響きを感じ取り、相手が誰かを聞き分けるのです。羊たちは、言葉に込められた愛の響きを感じ取り、愛を感じる人にはついてゆきますが、愛を感じない人からは逃げてゆきます。
 羊と同じように、人間も、相手の声に込められた響きを敏感に聞き分けます。そこに愛があるかどうかを、正確に聞き分けることができるのです。たとえば、説教台から自信満々に聖書を解説する神父。いろいろなことを教えてくれるのはありがたいことなのですが、その声に相手を見下すような響き、「わたしは、こんなにたくさんのことを知ってるんだぞ。すごいだろう」というような響きを感じたならば、すっかり興ざめです。その人は、相手のために話しているのではなく、実は自分自身のために話しているとわかってしまうからです。その人が愛しているのは、相手ではなく、自分自身なのです。どんなによいことを教えてもらったとしても、そんな人についてゆきたいと思う人は少ないでしょう。
 あるいはたとえば、子どもに「そんなことしちゃ駄目でしょ」と注意をする場合。「そんなことをしたら、あとで嫌な気持ちになるでしょ」という本人へのいたわりの響きが感じられれば、子どもは素直に従います。ですが、「なんでわたしの言うとおりにしないの」という苛立ちの響きが感じられれば、子どもは「なんであなたの言うとおりにしなければならないんだ」と反発して、決して従いません。相手の言葉に愛が感じられるとき、子どもはその人の言葉に従い、愛が感じられないとき逃げてゆくのです。
 言葉は、わたしたちの心の中にある思いを載せて響きます。言葉で愛を伝えたいならば、自分の心の中に、相手のことを本当に大切に思い、いたわる愛がなければならないのです。心に愛がありさえすれば、たとえ言葉が不完全だったとしても、愛は必ず伝わるでしょう。昔、イエズス会の日本管区にアルペという神父様がおられました。のちにイエズス会の総長になられた方です。アルペ神父はとても語学に堪能な方だったのですが、残念ながら日本語はあまり上手ではありませんでした。特に難しい話では、何を言っているのかわからないこともあったそうです。ところが、彼の信仰入門講座にはたくさんの人が集まり、次々と洗礼を受けてゆきました。あるとき不審に思った他の神父が、洗礼を受けた方に「本当にあの話の意味がわかったのか」と尋ねました。するとその人は「話の意味はわかりませんでしたが、この人が言うことなら間違いがないと思って入信しました」と答えたそうです。お人柄ということもあると思いますが、その言葉にこめられた愛が聞く人の心に届いたということでしょう。相手を本当に「神の子」であると思い、そのような深い愛情を込めて語りかけることで、わたしたちは相手に「あなたはかけがえのない神の子です」というメッセージ、すなわち福音を伝えることができるのです。神父の話をじっくり聞いて、声の響きの中からそのメッセージをしっかり受け止めたなら、難しいことはわからなかったとしても、それだけで洗礼の準備は十分に出来たと言っていいのではないでしょうか。
 わたしたちの声は、福音を響かせているでしょうか。「あなたはかけがえのない神様の子ども。わたしにとって大切な人」という愛の響きを帯びているでしょうか。言葉だけでなく、言葉にこめた愛によって福音を伝えることができるよう神様に祈りましょう。