バイブル・エッセイ(829)恐れる必要はない

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恐れる必要はない

「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」(マルコ13:24-32)

 世の終わりに起こるとされる天変地異について話したあとで、イエスは「これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と人々に語りかけます。イエスの強調点は、①たとえ世界が滅びても、イエスの言葉、神様の愛は決して滅びないから恐れる必要がないということ。そして、②天変地異が起こっても、それは世の終わりではなく、むしろ新しい世界の始まりでありなのだから、希望を捨ててはいけないということです。
 世界の終わりが語られるとき、わたしたちの心に恐れや絶望が生まれます。「財産を失ったらどうしよう、命を奪われたらどうしよう」と考えて悩んだり、「どうせすべてが終わるんだから、もう何をしても仕方がない」と考えて諦めたりしてしまいがちなのです。ですが、イエスは恐れる必要も、絶望する必要もないことをわたしたちにはっきり証します。恐れる必要はまったくありません。なぜなら、たとえすべてが滅びたとしても、神様の愛が滅びることは決してないからです。神様の愛を信頼し、神様の愛を土台として生きている限り、何も心配する必要などないのです。絶望する必要もありません。なぜなら、終末の時こそ、すべてが新たにされる時だからです。むしろ、終末が近づけば近づくほど、わたしたちは未来に希望を持つことができます。終末が近いということは、イエスがもうすぐやって来るということに他ならないからです。地震や台風が続いたり、不気味な気象現象が起こったり、世界の情勢が不安定になったりしても、恐れに駆られたり、絶望したりする必要はないのです。むしろ、どんなことが起こっても動揺せず、確かな希望を抱いて前向きに生きることによって神様の愛を証することこそが、わたしたちの使命と言えるでしょう。
 これは、天地が滅びるような、いわゆる「世の終わり」についてだけでなく、わたしたち一人ひとりにやって来る終わり、すなわち死についても言えることです。肉体の死は、わたしたち一人ひとりにとって、まさに天地が崩れ去る出来事であり、「世の終わり」とも思えます。ですが、恐れる必要も、絶望する必要もないのです。もし心臓が止まり、目は閉じ、耳は聞こえなくなり、呼吸さえ出来なくなったとしても、わたしたちは闇の中に落ちてゆくわけではありません。神様の愛にしっかり抱き留められ、天の国へと運ばれてゆくだけです。すべてが終わってしまうわけでもありません。わたしたちには、天国での永遠の安らぎが待っているのです。
 イエスは一貫して、恐れる必要も、絶望する必要もないことを説き続けます。世の終わりも、肉体の終わりである死もまったく恐れず、希望をもって前向きに生きる姿によって、神様の愛を証することができるように祈りましょう。