バイブル・エッセイ(829)目を覚ます

f:id:hiroshisj:20181202190057j:plain

目を覚ます

「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ21:25-28、34-36)

 世の終わりがいつやって来てもいいように、急に「人の子」が戻って来ても慌てることがないように、「いつも目を覚まして祈りなさい」とイエスは言います。もちろん、寝ずに祈り続けろということではありません。心の目を覚まし、どんなときでも「神の子」としてふさわしく行動しなさいということです。
 日常的な会話でも、「目を覚ます」がこの意味で用いられることがあります。たとえば、お父さんがパチンコにのめり込み、仕事をさぼったり、家族のためのお金まで使ってしまったりするような場合、家族は「お父さん、目を覚まして」と言うでしょう。「家族を愛し、一生懸命に働く元のお父さんに戻って」ということです。あるいは、非行を繰り返し、ついに警察の厄介になった子どもに、親が「いい加減に目を覚ませ」と言うことがあります。「人を思いやるやさしい心を持った、元のあなたに戻って」ということです。誰かが、欲望に溺れたり、誘惑に負けたりして、自分の本来のよさを失ってしまったとき、「本来のあなたに戻って。あなたが持っているよさを思い出して」という意味で使われる言葉、それが「目を覚ませ」なのです。
 わたしたちも、その意味でいつも目を覚ましている必要があります。「神の子」としての自分の本来の姿を忘れないこと。イエスの愛に触れ、イエスに従うと決意した日の気持ちを思い出し、本来の自分に立ち返ること。イエスから離れてしまわないように、いつも祈り続けること。目を覚まして祈り続けることがわたしたちに求められているのです。「放縦や深酒、生活の煩い」で自分を見失ってしまうということは、わたしたちにも起こりがちです。例えば、自分自身が罪をゆるされ、神さまの慈しみによって立ち直ったにも関わらず、他の人たちを厳しく裁いてしまう放縦。他の楽しみにのめり込んで神様のことを忘れてしまう「深酒」。不景気が続いて自分の生活はこれからどうなるのだろう、こんなに高齢化が進んで教会を維持できるのだろうかなどということばかり考えて、宣教者としての自分、すべてを神に委ねて生きることを決意した自分を見失う「生活の煩い」。そのようなことは、よく起こりがちなのです。
 待降節の始まりにあたって、わたしたちが「神の子」であることをもう一度思い出しましょう。わたしたちは、互いに愛し合う使命を与えられ、そのためにあふれんばかりの愛を注がれた「神の子」なのです。喜びの福音を地の果てまで伝える使命を与えられた「神の子」なのです。そのことを神に感謝して祈り、「神の子」として生きるための勇気と力を願いましょう。