バイブル・エッセイ(856)弟子の証

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弟子の証

 さて、ユダが(晩餐の広間から)出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:31-33a、34-35)

「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と、イエスは弟子たちに言い残しました。この世界のどこでも見たことがない、兄弟姉妹のために自分の命を差し出すほどの愛、互いに足を洗い合い、七の七十倍までもゆるし合うような愛を人々がわたしたちの中に見るならば、そのことによって、人々はわたしたちが特別な掟、イエス・キリストによって伝えられた神の掟を生きる神の民であることを知るだろうということです。
 口先でどんなに調子のいいことを言っても、それだけでわたしたちがイエス・キリストの弟子、神の民だということを相手に納得させることはできないでしょう。フランシスコ教皇は「わたしはキリストと出会いました。だから、こんな生き方をしているのです」という以外に、キリスト教徒の証はないとさえ言っています。口先でどんなに「わたしたちは救い主と出会って救われた」と言っても、あまり証にはならない。わたしたちと出会った人が、「この人は、いつも穏やかな笑顔を浮かべている。この人が人の悪口を言っているのを見たことがない」「この人は、どんなときでもわたしの話にしっかり耳を傾け、優しく励ましてくれる。一体この人はどういう人なのだろう」などと思うならば、それこそがわたしたちがキリスト教徒であることの何よりの証だということです。「こんな生き方が出来るなんて、この人はよほど特別な出会いを体験したのかもしれない」「この人が、救い主と出会ったと言うのも、まったくの嘘ではないかもしれない」と相手が思わずにいられないほど、わたしたちの生き方が変えられていること。それこそが、イエス・キリストが救い主であるということの、何よりの証拠、生きた証拠になるのです。
 キリスト教徒一人ひとりだけでなく、教会そのものにもこのことが当てはまるでしょう。もし教会に集まっているわたしたちが、イエス・キリストが残した愛の掟ではなく、「弱肉強食の掟」や「『目には目を、歯には歯を』の掟」に従って生きているなら、それを見た人たちは、「何だ、外の世界と一緒じゃないか」と思うでしょう。そのような社会にあって、相手の悪い所を暴くより、よい所をみつけて互いに認め合い、助け合って生きている人たちに出会ったときにだけ、この世の掟ではなく、愛の掟にしたがっ生きている人たちに出会ったときにだけ、人々は「何だろう、この人たちは」と思い、「この人たちは、イエス・キリストと呼ばれる救い主に出会ったに違いない」と信じてくれるのです。言葉だけでなく、わたしたち一人ひとりの生き方によって、互いに受け入れ合い、助け合って生きる共同体の証によって、イエス・キリストを伝えてゆくことができるよう祈りましょう。

バイブル・エッセイ(855)聞き分ける

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聞き分ける

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」(ヨハネ10:27-30)

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」とイエスは言います。「聞き分ける」というのはとても大切な言葉で、キリスト教の世界では「識別」という表現がよく使われます。聞こえてきた声が、キリストの声なのか、それとも、欲望に引きずられ、感情にかき乱された自分自身の声なのかをしっかり聞き分け、ただキリストの声だけに従って歩んでゆく。しっかり識別をしながら歩んでゆくことで、わたしたちは命の水辺に行くことができるのです。
 道に迷ったとき、人生の岐路で選択に迷ったときに、まず聞こえてくるのは、「どちらに行くのが安全だろうか。自分にとって得だろうか」と損得勘定をする自分の声でしょう。あるときは、Aの道の方がよく見えます。そちらの方が大きな利益や名誉をもたらしてくれるように思えるからです。ですが、あるときにはBの道の方がよさそうに見えるときもあります。そちらの方が、利益は少ないけれど安全に見えるからです。こうして、「Aの方がいいぞ」「でも、Bもなかなかのものだぞ」と呼びかける声、自分自身の損得勘定の声に耳を傾けているうちに、わたしたちはすっかり迷子になってしまいます。
 ときには、「自分さえよければいい。他の誰かを利用してもかまわない」「ばれさえしなければ大丈夫」というような声が混じるときさえあります。これはもう、悪魔の誘惑と言っていいでしょう。悪魔の誘惑は、とても甘くささやきかけますが、これに従ってしまえば、待っているのは苦しみと破滅だけです。
 キリストの声は、それらの声を黙らせたときに、心の奥深くから響いてくる静かな声です。自分自身の利害損得を手放し、誘惑をきっぱり退けて、心を静かにしたときに心の奥深くから聞こえてくる声。それこそが、キリストの声なのです。キリストの声の第一の特徴は、その静かさだと言っていいでしょう。心の表面に鳴り響く、欲望や感情の大きな声ではなく、心の奥深くから聞こえてくる静かな声に耳を傾ける。まず、それが不可欠です。
 キリストの声の第二の特徴は、愛情に満たされたやさしさや温もりです。キリストの声は、わたしたちを優しく包み込み、心に安らぎを与えてくれる声なのです。その声に耳を傾けるとき、心に喜びと安らぎが広がり、力が湧き上がるのを感じたならば、それはキリストの声だと思ってほぼ間違いないでしょう。
 キリストの声に耳を傾けているとき、わたしたちの心の奥深くから湧き上がって来る喜びや力、安らぎ。それを、「命の水」と呼んでもいいかもしれません。キリストの静かな声を聞き分け、その声に導かれて心の奥深くに降り立つとき、わたしたちはそこに「命の水」が滾々と湧き出す泉を見つけるのです。命の水は、わたしたちの心の渇きを満たし、不安や恐れを取り去ってくれます。疲れを癒し、再び立ち上がるための力を与えてくれます。どんなときでも、キリストの声を聞き分けることができるように、その声の特徴を心にしっかり刻みましょう。

 

バイブル・エッセイ(854)弱い指導者

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弱い指導者

 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。(ヨハネ21:15-19)

 イエスがペトロに向かって、三度「わたしを愛しているか」と問いかける場面が読まれました。なぜイエスは、あえて三回も同じ質問をしたのでしょうか。それはおそらく、ペトロに自分の弱さをしっかり思い出させるためだったと思われます。他の誰よりもイエスを愛していると言いながら、命惜しさにイエスを裏切り、三度もイエスを知らないと言ったペトロ。その弱さを心に刻んで忘れないことが、これからリーダーとなるペトロにとって何より大切なことだとイエスは思っていたのでしょう。
 これは、ペトロの後継者である教皇様のみならず、わたしのような末端の司祭に至るまで、教会を指導するすべての者が覚えておくべきことだと思います。わたしたちはつい、相手より自分を上に置き、優れた者が劣った者を指導するというような態度を取ってしまいがちだからです。例えば、信徒から悩みを相談されたとき、話もよく聞かないうちに、「またですか。だからね、何度も言ってるでしょ。聖書にこう書いてあるじゃないですか。これからは気をつけてくださいよ」といった指導をしてしまうのです。これでは、イエスに従うことにならないでしょう。
 もし自分自身の弱さを知り、自分も神にゆるしてもらった罪人であることを忘れないならば、相手の話を聞くときの目線は、常に相手と同じ高さにあるはずです。何度も聞いて、絶対にしてはならないとよくわかっていながら、それでもつい同じ罪を犯してしまう。自分自身もそうだ、その気持ちはよく分かると相手の弱さにしっかり寄り添い、「それでも、それにも関わらず神さまはわたしたちをゆるしてくださるのです。その愛に信頼して、次の一歩を踏み出しましょう」と語りかけるのが、わたしたちに与えられた使命なのです。教会に求められているのは「強い指導者」ではなく、むしろ「弱い指導者」、自分の弱さを知って遜り、相手の痛みに寄り添う指導者だと言っていいでしょう。
 イエスはさらに、あなたは「年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」という預言さえ与えています。人々に寄り添いながら生きる人生の最後は、人々のために自分の命を差し出すことだというのです。地上での見返りを求めるなら、それはまったく無駄なことだということでしょう。踏んだり蹴ったりのようですが、「それでもよければ、わたしに従いなさい。それがわたしに従うということだ」と、イエスはペトロに諭したのだと思います。
 これは、神父だけに求められることではないでしょう。信徒同士の関係にも、多かれ少なかれ当てはまることだろうと思います。互いに上から目線で罪を裁き合うのでなく、自分自身の罪深さを省みて相手の弱さに寄り添う。互いに、自分のことを最優先に考えるのではなく、相手のために自分を差し出してゆく。それこそ、すべてのキリスト教徒に求められていることでしょう。ペトロに向けられた三度の質問を、わたしたち自身に向けられた質問として、しっかり受け止めたいと思います。

フォト・ライブラリー(596)津和野・乙女峠まつり2019

津和野・乙女峠まつり2019

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 5月3日に行われた乙女峠まつりの中で、明治政府の迫害によって命を落とした37名の「津和野の証し人」たちの列聖調査開始が正式に宣言されました。

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 朝からたくさんの人々で賑わう、カトリック津和野教会。まもなく、聖母行列が始まります。

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町の中を粛々と進む聖母行列。津和野町でも屈指の大きな行事で、開会式には町長さんも出席しました。

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乙女峠にさしかかった聖母行列。木々の緑が目に鮮やかです。

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長い坂道を登りきって、乙女峠の聖堂が見えてきました。

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乙女峠に到着。かつてここにお寺があり、浦上から流配されたキリスト教徒たちが収容されていました。

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峠では、ツツジが見頃を迎えていました。新緑とのコントラストが鮮やかです。

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ミサの開始。今回は、前田万葉枢機卿様を始め、全国から8名の司教様が参加してくださいました。

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列聖調査の開始を宣言する白浜司教。この日は、全国から1800人以上の巡礼者たちが集まりました。

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行列で運ばれたマリア像。マリア様は、厳しい拷問の中で、証し人たちの心の支えとなりました。

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 行列の先頭で十字架を運んだカトリック宇部教会の中村友希子さん。さわやかな笑顔です。

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津和野の街の中心部にそびえる、カトリック津和野教会。1931年に建てられました。

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教会に隣接する「幼花園」。子ども園として、津和野の町になくてはならない存在です。

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巡礼の途中に立ち寄った道の駅・長門峡。白い藤が満開を迎えていました。

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藤は紫のイメージがありますが、白もなかなかのものです。

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清らかな水が流れる長門峡。心癒される風景です。

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長門峡は紅葉の名所として知られていますが、青モミジも見事です。

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新緑に彩られた山肌。「山笑う」という季語の意味が、なんとなく分かるような気がします。

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 帰り道に、SL山口号と出会いました。「デゴイチ」の愛称で知られるD51型です。美しい自然とすばらしい天気に恵まれた、とても素晴らしい巡礼の一日でした。

バイブル・エッセイ(853)愛の証

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愛の証

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:19-28)

 弟子たちの前に現れたイエスは、「あなたがたに平和があるように」と挨拶しながら、ご自分の手とわき腹の傷を弟子たちに見せたと書かれています。復活を疑うトマスにも、手とわき腹の傷を差し出しました。イエスの手とわき腹に残された傷が、今日の福音の一つの焦点と言っていいでしょう。復活したイエスの体には、処刑のときに付けられた傷跡が、はっきり残っていたのです。その傷は、イエスの弟子たちへの愛を証し、同時にイエスがイエスであることを証する傷でした。
 体が復活するとき、わたしたちはどんな姿になるのかというのは、大いに興味があるところです。例えば、100歳で亡くなった方は、復活のときも100歳の姿なのでしょうか。それとも、50歳の姿なのか、20歳の姿なのか。それによって、だいぶ復活のイメージは変わる気がしますが、実際のところは誰にも分かりません。
 ですが、復活しても消えないものがあると思います。それは、誰かへの愛ゆえにその人の体や心に刻まれた傷、その人の愛を証するような傷です。例えば、わたしは、亡くなった祖父を思い出すとき、まずその大きくてごつごつした手。長年の農作業でガサガサに荒れ、節くれだった手を思い出します。その手は、家族への愛情や彼の責任感、忍耐強さなど、さまざまなものを刻んだ手、彼の人生そのもの証するような手でした。復活して顔の様子が変わったとしても、その手を見れば、わたしは祖父を見分けることができるでしょう。逆に、復活したとき、その手がもし白魚のようなきれいな手になっていたとすれば、「これは、本当に祖父なんだろうか」と疑うかもしれません。イエスの手とわき腹に十字架の傷が残っていたように、復活するとき、わたしたちの体には、誰かへの愛のために刻まれた傷や皺が必ず残っている、とわたしは思います。
 それは、体の傷だけではないでしょう。心にも、愛ゆえに生まれた傷の跡が、必ず残っていると思います。例えば、イエスの心には、きっと弟子たちから裏切られたことが傷となって残っていたでしょう。ですが、その傷は、もはや血を流すような生々しい傷ではありませんでした。弟子たちをゆるすことによって、すっかりふさがれた傷跡。もはや痛みのない傷跡です。折に触れて傷跡が顔をのぞかせ、「お前たちも、昔はこんなことがあったじゃないか」というような言葉がイエスから発せられることはあるかもしれませんが、それは弟子たちを罰するためではなく、弟子たちの心にイエスの愛の深さを思い出させるためなのです。そのような傷跡は、もはや愛の記憶と呼んでいいでしょう。
 わたしたちの体や心に刻まれた傷が、その人の愛を証し、その人が誰であったかを証するように、イエスの体と心に刻まれた傷は、イエスの愛の深さを証しています。復活のイエスの姿を思い浮かべるとき、傷から目を逸らすことなく、逆に傷をしっかりと見つめ、その傷からイエスの愛の深さを思い出すことができますように。

 

バイブル・エッセイ(852)自分を忘れる

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自分を忘れる

 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。(コロサイ3:1-4)

「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」とパウロは言います。キリストと共に死んだ以上、わたしたちの命はもはやこの地上にはない。もし自分の命、生きる意味や力を見つけ出したいならば、天に目を向ける以外にないということでしょう。わたしたちの命、わたしたちの本当の人生は、キリスト共に天に隠されているのです。
「自分探し」とよく言います。わたし自身も、若いころ、真剣に「自分探し」をしていた時期がありました。自分らしい生き方、生き甲斐のある人生を、必死で探し求めていたのです。ですが、それはなかなか見つかりませんでした。「ある角度から見るとこちらの人生の方が有意義に思えるけれど、別の角度から見るとあちらの方が有意義だ。一体、どちらが自分にとって一番いいのだろう。結果として得なのだろう」という風に考えても、同じところを行ったり来たりするだけで、なかなか結論がでなかったのです。地上の物はすべて移り変り、考えるべき要素そのものが刻々と変化してゆきます。それどころか、判断を下す自分自身もどんどん変化してゆきますから、その中でいくら損得勘定をしても決定的な結論に到達することはできない。それは、ある意味で当然のことでしょう。
 自分が見つかったと思ったのは、そのような自分中心の考え方を捨てたときでした。もうこれ以上考えても仕方がないと覚悟を決め、神の前に跪いて「あなたがわたしに望まれることはなんでしょうか」とひたすら問い続ける中で、あるときついに自分の道が示されたのです。アッシジのフランシスコの「平和の祈り」の中に、「自分を忘れることによって自分を見出し」という一節がありますが、自分中心に、損得勘定を巡らせて「自分探し」をしている限り、決して自分は見つかりません。自分のことを脇に置き、ただ神のみ旨を求めるとき、わたしたちは初めて本当の自分を見つけることができるのです。それが、「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」ということなのだろうと思います。
 墓穴の中にイエスはいなかったという出来事も、この真理を指し示すものと読むことができるでしょう。自分中心の考え方しかできない「古い自分」、地上の物に心を引かれて損得勘定ばかりしている自分をわたしたちは葬りました。いつまでも、その同じ考え方の中にとどまっていては、復活の命を見つけることができません。エゴイズムに引き回され、恐れや不安に満たされた墓穴の中にとどまっていては、復活の命を見つけ出すことができないのです。
「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」という言葉は、わたしたちが目を向けるべき方向をはっきり指し示しています。喜びと力に満ちあふれた本当の人生、神様のみ旨にかなった本当の自分として生きるために、いつも自分ではなく天を見つめて歩んでゆけるよう祈りましょう。

バイブル・エッセイ(851)古い自分に死ぬ

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古い自分に死ぬ

 あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(ローマ6:3-11)

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」とパウロは言います。古い自分に死ぬことによって、キリストと共に新しい命によみがえる。それが、わたしたちが信じている復活です。「死んでから生まれ変わっても、もう手遅れ」という言葉を聞いたことがありますが、わたしたちの復活は死んだ後だけでなく、生きているうちに生まれ変わるということなのです。
 今年の聖週間、わたしは風邪を引いていました。教会の中では依然として「若手」と呼ばれますが、さすがに「アラフィフ」の声が聞こえ始め、だんだん無理がきかなくなってきているようです。体がだるくて動かなくなると、わたしは極端に機嫌が悪くなります。イライラして自暴自棄になり、周りに当たり散らすようになるのです。なぜそんなことになるのかと考えると、それは普段できることができなくなるからだと思います。やらなければならない仕事はたくさんあるのに、それが思った通り、いつものようにできない。「何でこんなこともできないんだ」という思いが、苛立ちを生むのです。
 これは、普段わたしが「自分の体は自分の思った通り動いて当然」と思い込んでいることの裏返しでしょう。健康に思い上がり、いつの間にか自分が自分の主人であるかのように思い込んでいるのです。そのため、体が自分の思った通りになると腹を立てて自分自身に当たり、そればかりか、その腹立ちを周りの人にぶつけたりするようになるのです。これは、「古い自分」がまだわたしの中で健在であることの証だと思います。
 アダムとエバの犯した原罪から人間の中に罪が入ったと言いますが、原罪の核となっているのは、自分自身を神とし、すべてを自分の思った通りにしようとする傲慢だと言っていいでしょう。自分を神とし、すべてを自分の思った通りにしたい自分こそが、アダムとエバ以来の「古い自分」なのです。「古い自分」に死ぬとは、自分がただの人間に過ぎないことを思い出し、自分の限界を受け入れるということ。「新しい自分」に生まれ変わるとは、自分勝手な思い込みを捨て、神のみ旨に身を委ねるということだと言っていいでしょう。
 風邪の例で言えば、「自分はもっと出来て当然。わたしとしたことが、何でこんなことも出来ないんだ」という思いを捨て、「これがわたしの体力の限界。ここまで出来たことを神に感謝し、いま与えられている力でできる限りのことをやろう」と考えるのが「古い自分」に死んで、「新しい自分」に生まれ変わるということでしょう。「新しい自分」に生まれ変わるとき、苛立ちは消え、代わりに穏やかな喜びがわたしたちの心を満たします。そして、やはり同じように疲れている家族や友だちに、やさしい言葉をかけられるようになるのです。
 復活とは、暗い墓穴から出ることだとも言われます。「古い自分」にこだわっているとき、わたしたちの心に生まれる苛立ちや怒り、不安、恐れ。そういったものが生み出す闇こそが、墓穴だと考えたらいいでしょう。墓穴から出るとは、何の恐れもない、喜びと感謝に満ちた光の中で生きるということなのです。「古い自分」に死に、喜びと感謝に満たされた「新しい自分」に復活できるよう祈りましょう。