バイブル・エッセイ(1160)心を燃やす

心を燃やす

 弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6:60-69)

 「命を与えるのは“霊”である。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」とイエスはいいます。イエスの言葉を聞くとき、わたしたちの心は燃え上がる。心を燃やして生きることこそ、本当の意味で生きるということであり、そのときに感じる喜びや感動こそが人間の幸せなのだ。わたしは、この言葉をそんな風に理解しています。
 では、心を燃やすとはどういうことでしょう。一番いい例は、エマオに向かう旅人たちの話でしょう。イエスの話を聞き終えた弟子たちは、「話を聞いていたとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。イエスが十字架につけられたあと、恐れと不安にさいなまれていた弟子たちの心に、イエスが希望の火を灯したのです。「大丈夫だ、まだやれる。救いを待っているたくさんの人たちの元に福音を伝えなければ」、弟子たちはきっとそう思ったに違いありません。イエスの愛が、弟子たちの心に燃え移ったといってもいいでしょう。そのとき、弟子たちの心には、愛の火があかあかと燃え上がっていたのです。
 わたしたちの心を燃やすもの、それはイエスの愛だといっていいでしょう。何かを手に入れたいという欲望も心を燃やすことがありますが、そのとき燃え上がる火は、心を焼き尽くし、やがて消えてしまいます。しかし、心に燃えた愛の火は、心を活き活きと燃え上がらせ、いつまでも消えることがないのです。イエスの愛に燃える心で生きているとき、わたしたちは本当の意味で生きているのであり、いつまでも消えない「永遠の命」を生きているのです。
 この火のもう一つの特徴は、周りにいる人たちの心に燃え移るということです。イエスの愛に心を燃やし、喜びと力に満ちた言葉で語る人のそばにいると、わたしたちの心にもその人の中に燃えている火が燃え移るのです。その人のそばにいると、なんだか心がウキウキしてきて、「よし、わたしもやるぞ」という気持ちになれるのです。不安や恐れは消え去り、希望の火が灯される。勇気と力が湧いてくる。そんな風にいってもいいでしょう。
 心の火が消えそうになったとき、わたしは、いま自分を待っていてくれる人たちのことを思い出すようにしています。「こんなわたしでも、待っていてくれる人がいる。その人たちのために、自分にできる限りのことをしよう」、そう思うと、それまで心を覆っていた不安や恐れは消え去り、心が燃え始めます。「めんどくさいなぁ」という気持ちで淀んだ心に、「よしやるぞ」という愛の火が燃え上がるのです。
 燃え上がった心で準備をし、燃え上がった心でみんなの前に出て話す。そうすることで、イエスの愛の火が、みんなの心に燃え広がっていく。それが福音宣教ということでしょう。福音とは、単なる言葉ではなく、心から心へと燃え広がっていく愛の火なのです。わたしたちがいつも、キリストの愛に満たされ、燃え上がる心で生きられるように。燃える心でキリストの愛を伝える宣教者でいられるように、共にお祈りしましょう。

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