バイブル・エッセイ(1162)心を開く

心を開く

 イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」(マルコ7:31-37)

 イエスが耳の聞こえない人の耳に指を入れ、「天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』」すなわち「開け」といわれる場面が読まれました。「開け」というのは、耳が開いて聞こえるようになるようにという思いだけでなく、閉ざされた心を「開け」という思いも込めた言葉のように聞こえます。イエスは、この人の耳だけでなく心も開き、この人を神さまとの、そして人々との愛の交わりの中に連れ戻したのです。

 ご高齢の方と話をしていると、「耳がよく聞こえないから、あまり人とは会いたくない。周りの人たちの話に入っていけず、孤独を感じるから」という話を聞くことがあります。耳が聞こえないからという理由で、周りの人たちに対して自分の心を閉ざしてしまう。わたしたち人間の心は、そのように動いてしまいがちなのです。

 しかし、中には心を開き続ける人もいます。たとえば、今年98歳になられたカンガス神父さまは、お耳がだいぶ遠くなってしまったのですが、積極的に人前に出て、信者の皆さんと交わっておられます。ミサだけでなく、入門講座までしておられるのです。耳はよく聞こえていないはずなのですが、カンガス神父様はいつもにこにこ、わたしたちの話を頷きながら聞いておられます。きっと、わたしたちの表情やしぐさから、わたしたちの心の声を聞き取っておられるのでしょう。そして、あたたかな笑顔で、わたしたちの思いをしっかり受け止めてくださるのです。耳が聞こえても聞こえなくても、そこにいるだけで周りの人たちとしっかり思いを通わせ、周りの人たちの心を癒すことができる。カンガス神父さまは、わたしたちにそのことを教えてくださいます。

 大切なのは、「耳が聞こえないんだから、もう人と交わることはできない」と決めつけないことだと思います。わたしたちは誰もが、神さまから愛されたかけがえのない存在であり、たとえ耳が聞こえなくても、話すことができなくても、ここにいるということだけで神さまからの愛のメッセージを伝えることができるのです。イエスが、耳が聞こえず、話すこともできないこの人だけを群衆の中から連れ出し、特別丁寧に対応したのは、この人にそのことを思い出させるためだったに違いありません。連れ出すということは、「あなたは、他の人とは違う特別な存在だ」という意味であり、丁寧に対応するということは、「あなたはとても大切な人だ」という意味なのです。

 祈りの中でイエスは、わたしたち一人ひとりに、特別に向かい合ってくださいます。わたしたちの心に触れ、「開け」、「何も心配する必要はない、あなたはここにいるだけで十分に価値がある存在なのだ」と語りかけてくださるのです。触れてくださるイエスのぬくもりと、かけてくださるやさしい言葉を信じ、心を開いて人と交わることができるよう祈りましょう。

 

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