神さまの責任
ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」(マルコ10:1-12)
「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねるファリサイ派の人々に対して、イエスが「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と答える場面が読まれました。結婚は人間の意思ではなく、神の意思によるものだから、人間が勝手に結婚の絆を解いてはならないというのです。
神さまが選んで出会わせてくれた相手と、神さまの前で永遠に結ばれる。それは、結婚する二人にとって、恵みに満ちた祝福の言葉だといっていいでしょう。「あなたはこの人と出会うために生まれてきた。この人と二人で幸せになることが、神さまの意思なのだ」ということです。神父や修道者になるとき、それは神さまの意思によるものだ、神さまに召し出されて神父、修道者になるのだという意味で「召命」という言葉を使いますが、結婚もそれと同じように、神さまがご自分の意思で二人を召し出し、結びつける「召命」なのです。結婚する二人は、その相手と結ばれ、二人で幸せな家庭を築く使命を与えられているのです。
これは同時に、大きな責任を伴う言葉でもあります。もし相手が自分で選んだ相手であれば、「わたしに人を見る目がなかった。間違った相手を選んでしまった」と言って、離婚することもできるでしょう。しかし、神さまが選んだ相手ならば、それは言えません。後から相手の欠点や嫌なところが見つかったとしても、神さまが選んでくださった相手である以上、互いに忍耐し、ゆるしあって生きていく以外に選択肢はないのです。「二人で幸せになるために生まれてきた」という言葉には、そんな意味も込められています。
司祭叙階式では、司教が新司祭たちのために、「あなたがたのうちに、よいわざを始めてくださった神ご自身が、それを完成してくださいますように」と祈る場面があります。「神さま、あなたがこの人たちを司祭にしたのだから、最後まで責任をとってくださいよ」という意味にもとれる言葉です。神さまが選んで新司祭と教会を結び付けた以上、神さまには最後までその人の召命を守る責任があるのです。結婚にも同じことが言えるでしょう。司祭は「これ以上、司祭職は続けられない」と思ったとき、「神さま、あなたが始めたことなのだから、最後まで責任をとってください」と祈ることができます。それと同じように、神さまの前で結婚した人は、「もう無理だ。こんな人とはやっていけない」と思ったとき、「神さま、あなたが選んでこの人と結婚させたのだから、なんとかしてくださいよ」と祈ることができるのです。
わたしたちには神さまから与えられた使命を果たす責任があるけれど、神さまがその使命を与えた以上、神さまにも責任がある。神さまは、必ず、豊かな恵みを注いでわたしたちの道を守ってくださるに違いない。そこにわたしたちの希望があります。神さまが始められことを最後まで成し遂げられるよう、神さまの助けを願ってお祈りしましょう。
※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。