人生の最後に
ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。(ヨハネ2:1-11)
最後に上等のぶどう酒が出てきたことに驚いた宴会の世話役が、花婿に「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」と言う場面が読まれました。そう言われた花婿も、きっと驚いたことでしょう。イエスは、わたしたちの思いをはるかに越えて働かれる方。わたしたちのために、一番後に、一番よいものを準備してくださる方なのです。
神学生の頃、高齢の司祭たちが介護を受けながら祈りの生活を送る修道院で、ある司祭からこんな言葉を聞いたことがあります。介護の手伝いでその修道院に通っていたわたしに、あるとき、一人の高齢の司祭が「修道会に入ってからいろいろなことをしてきたが、わたしが一番したいのはこれだった。いまが一番幸せだ」と言ったのです。その司祭が一番したかったこと、それはただイエスの言葉に耳を傾け、イエスの愛の中で人々のために祈る、穏やかで恵み豊かな祈りの生活だったのです。
その言葉を聞いて、わたしは感動しました。その司祭はとても有能な方で、これまでにたくさんのことを成し遂げてきた方だったからです。「これまで自分の力でいろいろなことをやって来たけれど、高齢になって動けなくなった今こそ、神の恵みで一番満たされている。修道者にとって一番の幸せ、それは神との豊かな交わりの中にこそあるのだ」、わたしは、その司祭がわたしにそう教えてくれたような気がしました。もちろん、神さまから与えられた使命を果たすのはとても大切なことでしょう。しかし、もし何もできなくなったとしても、わたしたちには一番よいもの、神さまの愛に包まれて穏やかに過ごす祈りの日々が待っているのです。
この老司祭の教えには、カナの宴会の話と重なる部分があります。人間の力で準備したぶどう酒が尽きたとき、イエスは空の水がめを、最もよいぶどう酒で満たしてくださる方、わたしたちの力が尽き、ただイエスの言葉に耳を傾けるときにこそ、最高の恵みを注いで下さる方なのです。先日もある司祭が介護付きの修道院に移動になるという知らせがありましたが、その司祭を気の毒に思う必要はありません。あの方は、まさにこれから、人生で最も恵み豊かな祈りの使命に旅立つのです。わたしたちとしては、これまでの感謝を込めて、祝福を祈るのがふさわしいと思います。
このことは、司祭たちだけでなく、信徒の皆さんにも当てはまると思います。修道院ではなく、ご自分の家、あるいは介護施設になるかもしれませんが、自分の力でもう何もできなくなったときにこそ、わたしたちはすべてを神の愛に委ねた祈りの日々に入ることができるのです。人生の最後に、イエスは一番よいぶどう酒をわたしたちのために準備してくださるのです。その恵みを味わう日を楽しみにしながら、いま自分たちに与えられた使命を果たすことできるよう、心を合わせてお祈りしましょう。
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