バイブル・エッセイ(937)悔いのない人生

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悔いのない人生

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(マルコ13:33-37)

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」とイエスは言います。いつ世の終わりがやって来るか分からないのだから、いつも身を正して備えていなさいということでしょう。わたしたちにやって来る「世の終わり」、それは死と考えてもいいかもしれません。

 青年たちと話していて、ときどき「死ぬのが怖いです。どうしたらよいでしょう」と相談を受けることがあります。人生について思い巡らしているうちに、どうしても最期のことを考えてしまうというのです。親戚や友人の死に直面し、自分のことを考えてしまったという人もいます。どんなに怖がったとしても、死を避けることはできません。どうしたらよいのでしょう。

「死ぬことは避けられないが、死ぬときに悔いが残らないように生きることはできる」、とわたしは考えるようにしています。たとえ死がやって来たとしても、「まだいろいろと心残りはあるが、これまでにやれるだけのことはやった。これだけやれば、もう十分だ」と思えれば、悔いなく死を迎えることができるはずです。「苦しいこともたくさんあったけれど、全体としてとても楽しい人生だった。生まれて来てよかった」と思えれば、喜んで死を迎えることさえできるかもしれません。「自分が消えてなくなってしまうのではないか」という死への恐怖は最後まで残るかもしれませんが、「これで十分、もう悔いはない。長生きを望めばきりがないが、生まれて来られただけでも幸せだった」と思えれば、きっと乗り越えることができるのではないか。わたしはそう思っています。

 では、どうしたら悔いのない人生を生きられるのでしょう。そのために必要なのが、「目を覚ましている」ことだと思います。「目を覚ましている」とは、やがて迎える最期の時、神様のみもとに召されるときを、いつも意識しているということです。「まだ明日がある、いまやらなくても大丈夫」と思って死に目を閉していれば、その日の晩に死がやってきて後悔することになるかもしれません。いつ死がやってくるかわからないということを意識し、どうしてもやりたいことがあればいまから始める、誰かに謝りたいことがあればいま謝る、伝えたい感謝はいま伝えるということを心掛けていれば、いつ死がやってきたとしても後悔は残らないはずです。たとえ何かやりかけの仕事があったとしても、精いっぱいにその仕事に取り組んでいたなら、「自分としてできる限りのことはやった。後のことは、次の世代に委ねよう」と思えるでしょう。

 いつも目を覚まし、神様から与えられた使命を精いっぱい生きているなら、そもそも死を恐れている時間がないでしょう。死を恐れるより、むしろ「死がいつやってきてもいいように、いまを精いっぱい生きよう」と考えるはずです。今年94歳になったカンガス神父様は、「わたしのメガネに、死は映らない。いつも目の前のことだけ」とおっしゃいます。目を覚ましていることこそ、死への恐怖に打ち克つための鍵だと言ってもいいかもしれません。いつも目を覚ましていることができるよう、自分に与えられた使命を精いっぱい果たし、悔いのない心で神様のもとに旅立てるよう、心を合わせて祈りましょう。

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