バイブル・エッセイ(1157)永遠に生きる

永遠に生きる

 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ6:41-51)

 「天から降ってきたパン」である自分こそが「命のパン」であり、「これを食べる者は死なない」とイエスはいいます。しかし、このところ毎週のように教会で葬儀があることからも明らかなように、イエスを救い主として信じている人にも肉体の死は訪れます。イエスは、いったい何をいおうとしているのでしょう。
 「死ぬ」ということを、「神さまから与えられた使命を見失い、自分に価値を見出せなくなる。生きていても仕方がないと思うようになる」という意味にとってはどうでしょう。道を見失い、生きる力を失って、絶望の闇が支配する死の世界に迷い込んでしまう。それが「死ぬ」ということだと考えれば、「命のパン」であるイエスを「食べるものは死なない」という言葉が深い意味をもって心に響いてきます。イエスを食べる、すなわち、イエスの言葉、イエスの愛をしっかりと味わって自分の血肉とするならば、決して道に迷うことも、自暴自棄になることもない。どんなときでも、喜びと力にあふれた「神の子」として生きることができる。決して「死なない」。イエスはそういっているのです。
 「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」というパウロの言葉は、わたしたちに、「神の子」として生きる道を示すものだと思います。「命のパン」を食べる、イエスの愛を味わうということを、もう少し具体的にいえば、それは「たくさんの間違いを犯してきたこんな弱い自分でも、神さまはゆるしてくださる。ありのままに受け入れ、愛してくださる」という事実を、噛みしめるようにして味わうということだからです。「わたしはゆるされている。生きていてもいいんだ」と信じられたとき、わたしたちの心の底から湧き上がる喜びこそが、わたしたちの救いであり、生きる力なのです。神からゆるされたことに心から感謝し、「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てる」とき、わたしたちは「神の子」として、本当の意味で生きる者になるのです。
 「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」とイエスはいいます。死なないばかりか「永遠に生きる」。それは、いったいどういうことでしょう。愛から生まれ、愛を生きた人は、肉体の死を迎えても決して消え去ることがない。愛の源に帰り、愛の中で永遠に生きる。わたしはそんな風に考えています。死んだ後の自分、地上での肉体が火葬されたあとにも生きている自分というのはうまく想像できないのですが、愛の源に帰っていく。神さまのもとに帰っていくということであれば、ある程度の実感をもって想像できるからです。清められたわたしたちの魂が、純粋な愛となって、神さまのもとで永遠に生き続ける。それは本当にすばらしいことだと思います。
 イエスの言葉だけでなく、生涯そのものが「命のパン」だといってよいでしょう。日々の生活の中で聖書を味わい、あらゆる被造物を通して語りかけておられるイエスの声に耳を傾けることができるように。「神の子」として永遠の命を生きることができるように、心を合わせてお祈りしましょう。

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