バイブル・エッセイ(1161)清らかな心で生きる

清らかな心で生きる

 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ7:1-8、14-15、21-23)

 手を洗うなどして外側を清めることにこだわる律法学者たちに、イエスは、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚す」のだといいました。どんなに外側をきれいにしても、心の中が汚れ放題だったら何の意味もない。外から入ってくるものより、むしろ内側から湧き上がってくる怒りや憎しみ、ねたみ、悪意などの汚れた思いに注意すべきだというのです。
 では、どうしたらわたしたちは、心の内側を清らかに保てるのでしょう。たとえば、インターネットを通して他人の豊かな暮らしぶりを見る機会が増えたせいで、自分が惨めに思えてくる。他人に対してねたみを感じるという場合を考えてみましょう。これは最近よく聞く話なのですが、外から入ってくる情報、誰かが御馳走を食べたり、旅行を楽しんだり、たくさんの友だちと楽しそうに過ごしたりしている写真などは、決して悪いものではありません。それを見たとき、わたしたちの中から湧き上がってくるねたみが、わたしたちを汚しているのです。
 ねたみの前提にあるのは、「自分は持っていないものを相手が持っている」「自分はこんなに不幸なのに相手はあんなに幸せだ」という思い込みです。自分にもたくさんの恵みが与えられていることを忘れ、「わたしは不幸だ」と思い始めている。他人の幸せそうな姿を見てねたみを感じるのは、そんなときなのです。ですから、もし心にねたみが生まれてきたら、いったんそれを脇に置いて、自分自身に与えられている恵みを思い出すのがよいでしょう。遠くに旅行はできないけれど、わたしは自分が住んでいるこの場所が大好きだ。御馳走は食べられないが、毎日、食べられるものがあるというだけでもありがたい。決してたくさんではないが、こんなわたしのことを優しく見守っていてくれる人もいる。そのように、自分に与えられた恵みを思い出し、自分の幸せをかみしめているうちに、他人に対するねたみはどこかに消えてしまいます。それどころか、「あの人にも恵みが与えられてよかった。願わくば、あの人がその恵みに感謝して幸せになることができますように」と祈ることさえできるようになるのです。
 心の内側から汚れた思いが湧き上がってくるのは、ある意味で人間として当然であり、避けられないことでしょう。大切なのは、汚れた思いに身をまかせないこと、立ち止まって、自分に与えられた恵みに気づくことなのです。自分に与えられた恵みに気づき、神さまの愛をしっかりと受け止めて、心を神さまの愛で一杯にしている限り、汚れた思いがわたしたちの心に入り込むことはできません。心を清らかに保つとは、いつも心を神の愛で満たしているということなのです。自分に与えられていないものではなく、与えられているものを見ることによって、与えられた恵みに感謝することによって、いつも清らかな心で生きられるよう、共にお祈りしていきましょう。

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