バイブル・エッセイ(65) イエスは生きている

 このエッセイは、4月27日、松蔭女子学院で行なわれた復活礼拝での説教に基づいています。松蔭女子学院の皆様、お招きありがとうございました。

 婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。(ルカ23:56-24:9)

「イエスは生きている」
 婦人たちがイエスの遺体を探していると、天使が現れて彼女たちに言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。」イエスは死んでなどいない、今も生きているというのです。キリスト教では、この天使の言葉通り、今でもイエスが生きていると信じています。姿が見えず、声が聞こえなかったとしてもイエスは生きている、一体どういうことでしょうか。今日は、わたしが生きているイエスと出会った体験をお話ししてみたいと思います。
1.マザー・テレサに出会う
 その体験は、一人の人物との出会いを通して起こりました。その人物とはマザー・テレサです。わたしは埼玉県の農家の息子として生まれましたが、そのわたしがなぜマザー・テレサと出会うことになったのか、まずお話したいと思います。
 わたしは大学3年生のときに父を亡くしたのをきっかけに、キリスト教の洗礼を受けました。それまでキリスト教にはまったく縁のない環境で生まれ育ちましたが、父が亡くなったことによる悲しみと不安の中でたまたまキリスト教の本を手に取り、その本を書いた神父様から洗礼を受けることになったのです。
 洗礼を受けてすぐのころ、わたしは何か物足りないものを感じていました。期待していたような神様の愛や喜びというものを、洗礼を受けても感じられなかったからです。言葉による理解だけではなく愛の実感がほしいと思ったわたしは、キリスト教的な愛の実践で知られるマザー・テレサに興味を持ちました。何冊も彼女についての本を読んでいるうちに、日本にも彼女の修道院があることがわかったので、そこに行って手伝おうかと思うようになりました。
 そしてある日、修道院に電話をかけたのです。何を手伝えるのかなどを聞いたあと、わたしは前から疑問に思っていたことを尋ねてみました。マザー・テレサは何年に亡くなったのかということです。どの伝記を読んでも彼女が亡くなった年が書いていなかったので、わたしは不思議に思っていました。「マザーは、何年に亡くなったのですか?」とわたしが尋ねると、シスターは笑いながら「マザーは、まだカルカッタで生きていますよ」と言いました。その言葉を聞いた瞬間、わたしの心の中で「ならばカルカッタに行ってマザーに直接会おう」という決心が固まりました。こうしてわたしはカルカッタに行くことになったのです。
2.マザーの温もり
 カルカッタに着き、マザー・テレサの家であるマザー・ハウスに行くと、すぐにマザーに会うことができました。彼女は、まったくなんの約束もなく突然訪れたわたしのような青年さえも、温かく迎えてくれたのです。まるで孫が里帰りしたのを喜ぶおばあさんのように、マザーはやさしい笑みを浮かべながらわたしの手を握り、「よく来たわね」と言ってくれました。その一言だけで、わたしはもううれしくてうれしくて仕方がなくなりました。
 マザーは、誰が来ても同じように優しく、真心をこめて歓迎する人でした。わたしはその後、1年あまりカルカッタに滞在することになったのですが、その間にそんな場面を何回も見ました。あるとき、オーストラリアの田舎から、麦藁帽子をかぶったお百姓のおばさんが訪ねてきたことがありました。彼女は泣きながらマザーに「わたしの夫はアルコール中毒で、わたしや子どもたちに暴力を振るいます。苦しくて、もう生きている意味が見つかりません」と話し始めました。しばらく彼女の話を親身に聞いたあと、マザーは彼女の手を優しく握りながら「大丈夫、あなたの苦しみをイエス様はよく知っています。どんなときでもイエス様の手を握って離さないようにしなさい」と声をかけました。彼女は、涙をぬぐいながら微笑み、その後またオーストラリアに帰って行きました。
 おそらく彼女は、マザーの手の温もりの中に、イエスの温もりを感じ取ったのでしょう。マザーの手の温もりの中に、生きてるイエスの温もりを感じ取ったのでしょう。このようにして、わたしを含めて数え切れないほど多くの人がマザーの温もりの中に生きているイエスの愛を感じ取ったのです。
3.イエスは生きている
 マザーの温もりに魅了されたわたしは、彼女のように神様の愛を人々に伝えられる人間になりたいという思いに駆られ、その後神父になることを決心しました。わたしの中にもイエスが生き、わたしを通してわずかでもイエスの温もりが人々に伝わっていけばいいなと思います。
 皆さんもどうか、学校生活を通して神様の愛を全身で感じ取り、その愛で周りにいる人たちを温かく受け止められる人になってください。わたしたちがそうやって神様の愛を生き続ける限り、イエスはわたしたちの中で生きています。イエスは、わたしたちの愛の中でいつまでも生き続けているのです。
※写真の解説…オーストラリアから来た女性の話を聞くマザー。