バイブル・エッセイ(103)神様の肩車


 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ15:1-7)

 神様は迷子の羊であるわたしたちをどこまでも探しに来てくださり、見つけるや否やもう二度と迷子にならないよう肩に担いで運んでくださる方だとイエスは言います。
 この場面を思い浮かべながら、わたしは昔父親に肩車されたときのことを思い出しました。わたしが幼い頃、父はよく晩御飯のあとわたしを肩車して散歩に連れて行ってくれたものです。肩車されているとき、わたしは自分で道を選ぶ必要がありませんでした。父が道を選んでくれたからです。それに、自分の力を使う必要もありませんでした。大きな父の力に身を委ねていれば、父がわたしを軽々と運んでくれたからです。
 神様に担いでもらうときも、きっと同じでしょう。もし迷子になってしまったとき、わたしたちはただ神様に身を委ねさえすればいいのです。自分で道を選ぼうとしたり、自分の力で道を歩こうとしたりすれば、また迷子になってしまうでしょう。わたしたちはただ、安心して神様の肩に乗っていればいいのです。そうすれば、父である神様がわたしたちのために一番いい道を選び、大きな力でわたしたちを軽々と運んで行ってくださいます。
 わたしたちは、日々の生活の中でしばしば神様を見失い、迷子になってしまいます。そのたびごとに、見つけに来てくださる神様に身を委ねたいものです。祈りの中で神様に自分の全てを委ねるならば、神様は力強い肩にわたしたちを担ぎあげ、「神の国」へ運んでいってくださるでしょう。  
※写真の解説…草を食べる羊たち。六甲山牧場にて。