バイブル・エッセイ(461)『物乞いの心』


『物乞いの心』
 そのときイエスは、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。(マルコ6:7-13)
 イエスは弟子たちに悪霊を追い出す権能を授け、「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持っていってはならない」と命じました。杖を持つ以外は、着の身着のままで出かけろということです。なぜ、そんな厳しいことを言ったのでしょう。それはきっと、身一つの旅を通して、弟子たちに神への完全な委ねを体験させるためだったのではないかと思います。
わたし自身、フィリピンで修練していた頃に、同じような旅を体験したことがあります。歩いて数日のところにある聖堂までの徒歩巡礼を命じられたのですが、持って行っていいのは寝袋とテントだけでした。食べ物もお金もありませんから、半日も歩いているとお腹がぺこぺこで仕方がなくなり、道端の民家で物乞いをせざるを得なくなります。普段、人に物乞いをするなどということはないので、これはかなり覚悟がいることでした。実際、「なんだ、この貧乏人が」とさげすみの目で見られることもあり、「若いんだから、自分で働いて稼げ」と怒られることもありました。すべてのプライドを捨て、食べる物さえ持っていない憐れな自分を相手の手にすっかり委ねる覚悟がなければ、物乞いなどできないのです。神様が相手の心の中にある愛を呼び覚まし、その相手を通してわたしたちに何かを与えて下さることを信じてわたしたちは物乞いを続けました。こうしてわたしたちは、物乞いを通して神にすべてを委ねることを学んだのです。
 この体験を通して、わたしは主の祈りの中に、「わたしたちの日ごとの糧を、今日もお与えください」という言葉が入っていることの意味を痛感しました。わたしたちは、日々神に物乞いをしながら生きているのです。「自分には食べ物を手に入れる力さえありません。だから、この憐れなわたしに食べ物をお与えください」と祈り、神に自分の命を委ねながら生きているのです。どんなにお金持ちになり、たくさんの物を手に入れたとしても、わたしたちは神の前で物乞いに過ぎない。そのことをわたしたちの心にしっかりと刻み付けるために、イエスはあえてこの言葉を主の祈りの中に入れたのではないかとわたしは思います。
 何も持たないことから生まれる神への全面的な委ねは、悪霊と戦うためにどうしても必要です。自分の力に頼っていれば、悪霊はそこに付け込んでくるからです。わたしたちの心に、「食べ物くらい自分で手に入れることができる」という傲慢があれば、悪霊は、「神になんか頼らなくても、お前は自分の力で生きていくことができるぞ」とわたしたちを誘惑し、悪の道へと引きずりこんでゆこうとするでしょう。「高い地位に着いているから自分は偉い」という傲慢があれば、悪霊は「お前は偉いんだから、こんな小さなことをする必要ない」と思い上らせ、奉仕の心を失わせようとするかもしれません。「人から評価されているから自分は正しい」という傲慢があれば、誰かとうまくゆかないとき、悪霊は「悪いのは相手だ。お前はちっとも悪くない」と思い込ませ、ゆるしの心を失わせようとするでしょう。何かを持つことで傲慢になった人は、こうして悪魔の言うなりになってしまうのです。
 悪霊を追い払うためには、徹底した謙遜と、委ねが必要です。たとえ何かを持っていたとしても、それらはすべて神から与えられたものであり、自分は憐れな物乞いに過ぎないということをしっかり心に刻んでおく必要があるのです。主の祈りを唱えるたびごとに、自分は神の前で物乞いに過ぎないことを思い出し、謙遜になってゆきたいと思います。