バイブル・エッセイ(557)「死でさえ奪えないもの」


「死でさえ奪えないもの」
 コヘレトは言う。なんという空しさ。なんという空しさ、すべては空しい。知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。(コヘレト1:2、2:21-23)
「なんという空しさ、すべては空しい。人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう」とコヘレト、すなわちソロモンは言います。大きな版図を従え、富も名誉も権力もすべて手に入れながら、それでもなお人生は虚しい。無意味だというのです。なぜでしょう。それは、どんなに財産や名誉、権力を手に入れても、死によってすべてを奪い取られてしまうからです。そうだとすれば、努力して富や名誉、権力を手に入れることに、何の意味があるのだろう。ソロモンはそう感じたのです。
 これは、わたしたち自身も感じる疑問でしょう。日本人の多くは病院で死にますが、わたしたちもいつか病院のベッドで、パジャマで、点滴をつけられて死んでゆくことになるでしょう。家にどれだけたくさんの物を持っていたとしても、病室に持ってゆけるのは、せいぜいボストンバッグ一つ分の荷物だけです。最後にはもう、おいしいものを食べることも、自分でトイレに行くことさえも出来なくなります。どれほど名声を築いたとしても、死んでしまえば思い出す人は少なくなり、10年後、100年後にはもう誰も覚えていないでしよう。人生がそのようなものだとすれば、わたしたちが生きることに一体どんな意味があるのだろう。わたしたちはつい、そんな風に考えてしまうのです。
 問題は、人生の意味をどこに見出すかということだと思います。もし自分の利益だけを人生の目的と考えるなら、死によってすべてを奪われることを悟ったとき、人生そのものが無意味と思えるでしょう。自分の利益にならないことを「無駄なことだ」と言って切り捨てながら生きている人には、最後には人生そのものが壮大な無駄に見えてくるのです。
 人生の意味は、自分の利益にならないこと、自分以外の誰かのために尽くすことの中にこそあるとわたしは思います。人生の意味は、何かを手に入れることではなく、誰かのために自分を差し出すこと、誰かのために役に立つこと、誰かを愛することの中にこそあるのです。死によってすべてを奪われるときが来たとしても、子どもや孫たちの顔を見て、「わたしはこの子たちのために出来る限りのことをした。命を次の世代につなぐことができた」と思えば、自分の人生に意味があったと思えるのではないでしょうか。「あのとき、わたしはあの人のために自分のすべてを差し出した。わたしたちのあいだには、確かに愛がある」、そのような確信は、すべてを呑み込む死の闇さえ乗り越える力になるのです。
 現代では、多くの人が王のように豊かな暮らしを享受しています。しかし、欲しい物をすべて手に入れながら、心に空しさを抱えている人が多いのも事実です。それは、心にゆとりを失い、自分のことばかり考えているからかもしれません。わたしたちは、誰かを愛することによってしか幸せになることができないのです。「わたしは誰かの役に立っている。わたしの存在を喜んでくれる人がいる。生まれてきてよかった」という実感だけが、わたしたちに幸せをもたらしてくれるのです。そのことを忘れないようにしたいと思います。
 日々を幸せに生きられるように、そして死ぬ間際になって後悔することがないように、死でさえ奪うことができない本当の富、愛の宝を天に積むことができるように祈りましょう。