たとえわずかでも
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12:41-44)
賽銭箱に1クァドランスを投げ入れた女性を見て、イエスが、「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」という場面が読まれました。1クァドランスというのは、1日の賃金の64分の1の金額なので、1日の賃金を1万円とすると156円ということになります。金額は決して大きくないけれど、この女性の献金には大きな思いが込められていた。イエスは、その思いを見ておられたのです。
この女性が、いったいどんな思いで献金を入れたのか。それは想像するよりほかにありません。もしかすると、すでに死を覚悟しており、自分の命を神さまの手に委ねる気持ちだったのかもしれないし、死を前にして、これまでの人生で神さまから頂いたたくさんの恵みを思い出し、神さまに感謝するという気持ちだったのかもしれません。神さまへの委ねと感謝、そして、それらの根底にある愛の深さ、イエスはそれを見ておられたのです。
わたしたちはつい、目に見える金額や量によって物事の価値を判断してしまいがちです。「自分自身の生活が苦しいので、災害で困っている人たちのために100円しか出すことができない。これっぽっち、出したところで意味がない」とか、「近頃、足腰が弱ってしまい、教会での奉仕活動にあまり参加できなくなった。これしか奉仕できないなんて、自分は価値のない人間だ」とか、そのように考えてしまいがちなのです。しかし、そんな風に考える必要はまったくありません。たとえわずかな金額しか出せなかったとしても、「こんなわずかで申し訳ないが、被災地の皆さんのために何かせずにはいられない」という気持ちで思い切って差し出すなら、その献金は、神さまの前でとても大きな価値があるのです。たとえ簡単な作業しかできなくても、「これだけしか奉仕できないけれど、こんなわたしでも何かのお役に立てるなら」と思って奉仕するなら、その奉仕には、神さまの前でとても大きな価値があるのです。わたしたちがすることは、目に見える金額や量だけでは決まらない。神さまは、目に見えないわたしたちの思いを見ていてくださる。「これくらいしても意味がない」「これしかできないなんて、わたしは価値のない人間だ」などと考える必要はまったくない。このやもめの献金の話は、わたしたちにそのことを思い出させてくれます。
マザー・テレサからこんな話を聞いたことがあります。あるとき5歳くらいの男の子がお母さんと一緒にやって来て、マザーに、砂糖がいっぱいに入った瓶を差し出したというのです。お母さんによると、この子は、砂糖がなくて苦しんでいる人たちがいるという話を聞いて、甘いものを食べるの我慢した。そして、その分の砂糖をお母さんが瓶にためて持ってきたということだったそうです。貧しい人たちに分けるには少ない量でしたが、マザーはその砂糖を心から感謝して受け取りました。なぜなら、その砂糖には、その男の子の純粋な愛が込められていたからです。「わずかなことしかできないから駄目だ」と決めつける必要はありません。大切なのは、わずかなことに込められた愛。神さまは、その愛を見ておられるということを、改めて心に刻みましょう。
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