カルカッタ報告(61)8月28日Br.ジェフ②


 食卓の話題は、サージ神父が説教のときに使ったタブレットPCから始まった。この神父さんは説教のとき懐からタブレットPCを取り出し、それを見ながら説教したのだ。友人からプレゼントでもらったそうで、これまでに書いたすべての説教原稿や講演原稿、黙想指導案などをすべてその中に収めているという。だから、これ1枚さえあればどこでも仕事ができると力説していた。数百枚の紙を持って歩くより便利だし、紙代もばかにならないから経済的に考えてもこちらの方がいいという。
 その話から、なぜM.C.ではパソコンを使わないのかという話になった。国際電話をかけたり手紙をやり取りしたりするより、Eメールをやり取りした方がよほど便利だし、安上がりなのになぜM.C.は清貧を盾にパソコンを導入しないのだろうかということだ。Br.ジェフに聞くと、確かに今、マザー・ハウスにはインターネット接続ができるパソコンが1台もないという。ここには税務上の書類を作成するためのパソコンが1台あるだけで、他の書類はまだタイプライターで打っているそうだ。そのパソコンも、政府がパソコンから出力した書類しか受け付けないために、やむなく置いているとのことだった。列福調査の期間には、教皇庁がやはりパソコンから出力した書類しか受け付けなかったので、期間限定でもう1台パソコンを置いていたという。
 サージ神父が一生懸命話しているので、Br.ジェフもわたしも言わなかったが、シスターたちがパソコンを使わない理由は明らかだろう。それは、貧しい人たちがパソコンを持っていないからだ。マザーは次のように言っている。 
「貧しい人々を理解するためには、わたしたち自身が貧しさとは何であるかを知らなければなりません。でなければ、わたしたちは違った言葉を話すようになるのではありませんか。子どもの心配をする母親のそばに、いることができなくなるかもしれません。」
 例えば洗濯という言葉だ。この言葉は、洗濯機を持っている人たちにとっては洗濯物を機械に放り込んで洗剤を入れ、スイッチを押すということを意味している。しかし洗濯機など持たない貧しい人たちにとっては、洗濯物を持って川まで行き、1枚1枚洗濯物を洗うということを意味している。同じ言葉でも、どんな生活をしているかによって意味が違ってしまうのだ。もしシスターがEメールをやり取りするようになれば、一生懸命ためたお金で切手を買い、田舎の両親に手紙を書く貧しい人の気持ちが分からなくなるかもしれない。
※写真の解説…「ここがわたしたちの家です」と語るスラム街の男性。1995年撮影。