バイブル・エッセイ(344)神の声を聞き分け、それに従う


神の声を聞き分け、それに従う
「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」(ヨハネ10:27-30)
 「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」、この言葉は世界召命祈願日である今日の朗読箇所として、まさにふさわしいものだと思います。召命とは、主の呼び声を聞き分け、その声に従って生きることに他ならないからです。主の声は、今日、2つの方向からわたしたちに届きます。主の声は、わたしたち自身の心の深みから響く小さな声であると同時に、苦しんでいる人々の叫びを通してわたしたちに届く声なのです。
 心の深みから響いてくる声と召し出しについて、ヨハネ・パウロ2世は次のように語っています。
「召し出しとは、自分の存在の深みであなたたちが受け入れ、生きる神秘なのです。祈りの親密さの中で、イエスはあなたたちの目を覗き込み、あなたたちの心に語りかけます。」
 「存在の深み」、すなわちわたしたちの心のもっとも奥深い部分で、イエスはわたしたちに語りかけるとヨハネ・パウロ2世は言います。祈りの静けさの中で、心の奥深くから響く声に耳を傾けるとき、その中にわたしたちはイエスの声を聞きとることができるのです。
 ふだんわたしたちは、「あれをしたいけれども、これはやめたくない」とか、「あれが欲しいけれども、これは手放すことができない」というようなこの世的な思い悩みの声に耳を傾けながら生きていることが多いようです。ですが、召し出しにおいて大切なのは自分が何をしたいとか、何をしたくないということではありません。大切なのは、神がわたしたちに何を望んでおられるかということです。その声に耳を傾け、聞き分けたならすべてを捨ててその声に従う、それが召し出しなのです。
 苦しんでいる人々の叫びを通して語られる神の声と召し出しについて、パウロ6世は次のように語っています。
「召し出しとは、慰めも、導きも、愛もなく苦しんでいる人々の嘆願する声に、耳を傾ける力のことです。」
 神はときに、苦しんでいる人々の叫びを通してわたしたちに語りかけることがあります。召し出しとは、その声に耳を傾けることに他ならないとパウロ6世は言うのです。苦しんでいる人々の叫びに応え、人々に奉仕することこそが召し出しだということでしょう。
 たとえば、無意味に聞こえる家族の愚痴を通しても主は語っておられるかもしれません。愚痴は、その人の心の苦しみの表れだからです。あるいは、反抗ばかりしている子どもの声。それは、「もっとぼくに関心を持って」という子どもの叫びかもしれません。同じ話ばかり繰り返すお年寄りの声。それは「わたしはさびしくてたまならない」という苦しみの表現かもしれません。それぞれの苦しみを抱えた人々の言葉を通して、主はわたしたちに語りかけて下さっています。それは「あなたの愛が必要です」という、切なる呼びかけです。その声に耳を傾け、聞き分けたならすべてを捨ててその人たちに奉仕する、それが召し出しなのです。
 召し出しが、わたしたちの心の奥深くに響く小さな神の声、苦しんでいる人々の叫びを通して私たちに愛を求める神の声を聞き分け、それに従うことだとすれば、それは司祭や修道者の召し出しに限らないでしょう。主は、すべての人をそれぞれの道に招いておられます。家族への奉仕、社会への貢献、教育や医療など、どれもが尊い召命なのです。まず、自分はどの道に呼ばれているのか、それをしっかり聞き分けましょう。そして、その道を歩み始めたなら、道に迷わぬよう日々神の声に耳を傾けながらその道を進んでいきたいと思います。
 牧者である主に従って歩んでいる限り、主はいつもわたしたちを守り、必要なものをすべて整えて下さるでしょう。主の群れの中で、わたしたちは主にすべてを委ね、日々を安らかに、喜びと力に満ちて生きていくことができます。それこそが、永遠の命だと言っていいでしょう。道に迷ってしまわないように、神の声を一言も聞き漏らさぬよい耳を与えて下さいと主に願いましょう。
※写真…神戸市立森林植物園、長谷池にて。