バイブル・エッセイ(564)いつくしみの扉を開く


「いつくしみの扉を開く」
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセ預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセ預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」(ルカ16:19-31)
 地獄の炎に焼かれて助けを求める金持ちに、神は「わたしたちとお前たちの間には大きな淵がある」と答えます。淵とは何でしょうか。それはきっと、無関心でしょう。金持ちはラザロの苦しみにまったく関心がなく、ラザロに対して閉ざされています。その無関心が、暗い淵となってラザロと金持ちのあいだに広がっているのです。その淵は、神でさえ埋めることができません。金持ちが、自分で作ってしまったものです。その淵を越えられるものがあるとすれば、それは、人々の苦しみに共感する愛だけでしょう。
 「いつくしみの特別聖年」で、各地の教会で「聖年の門」が開かれました。その門をくぐることによって、神の恵みの世界へと足を踏み入れることができるということです。神の恵みの世界に入るための門は、実は、もう一つあります。それは、わたしたちの心の中にある、いつくしみの門です。苦しんでいる人を見て、その人に対して心を開くとき、はじめてわたしたちは神の恵みの世界に足を踏み入れることができるのです。
 神の恵みは、もちろん聖堂で祈っているときにも与えられます。神に自分のすべてを委ね、心を開くとき、開かれた心の扉から神の恵みが豊かに注がれるのです。ですが、恵みが注がれるのは、天に向かって祈っているときだけではありません。目の前にいる兄弟姉妹や、苦しんでいる誰かに向かって心を開くとき、相手を何とか助けてあげたいと、祈るような気持ちで相手と向かい合うとき、わたしたちの心に天からの恵みが豊かに注がれるのです。苦しんている誰かに心を開くとき、それまで、まったく思いもしなかったような気付きやひらめき、神の愛の深い実感、生きてゆくための勇気や希望などが天から降り注ぎ、また心の底から湧き上がってくるのです。苦しんでいる誰かとのあいだで心が通い合うとき、わたしたちのあいだに天国が生まれるとさえ言っていいでしょう。
これは、教会や幼稚園、刑務所などで司牧をしていて痛切に感じていることです。聖堂での静かな祈りと、苦しんでいる人々とのかかわりの中で生まれる祈りと、その二つが司祭としてのわたしの霊的な支えです。二つが一つと言ってもいいでしょう。どんなに神の前で祈ったとしても、苦しんでいる人に対して心を閉ざすなら、恵みの門はぴしゃりと閉ざされ、神の恵みはもう注がれなくなります。何とかしてあげたいと思って、苦しんでいる人に対して心を開いたとしても、沈黙の中でしっかり祈っていないなら与えるものが何もありません。キリストの弟子として生きるためには、いつも、心の扉を二つの方向に向かって開いている必要があるのです。
 自分の都合を優先して、苦しんでいる人に心を閉ざすとき、わたしたちは「神の国」の扉を自分で閉ざすことになります。今日のたとえ話の金持ちは、生きているあいだ門前で苦しんでいたラザロに心を閉ざし、死んだ後もまるで召使か何かのように思っていて、ラザロにまったく関心がありません。その無関心が金持ちを天国から遠ざけているのですが、そのことに気づかないのです。聖年の扉は、わたしたちの心の中にもあります。苦しんでいる人に対して、いつくしみの扉を開くことができるように、そのための恵みを神に祈りましょう。