バイブル・エッセイ(154)招かれる者は多いが


 エスは、また、たとえを用いて語られた。天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』
 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(マタイ22:1-14)

 急に人を招いておいて礼服を着て来なかったからと言って追い出す、しかも手足を縛って追い出すというのはずいぶんひどい話のように思えます。このたとえが「天の国」に似ているとは、一体どういうことなのでしょう。
 こんな話を思い出しました。東京で一人暮らしのお年寄りたちを訪問して回っているシスターから聞いた話です。髪や髭は伸び放題、部屋も散らかし放題で生活している一人のお爺さんがいたそうです。服が汚れていても着替えようとしません。ところが、シスターたちが定期的にそのお爺さんのところに通うようになると、お爺さんは急にきれいな服を着、身だしなみを整えるようになったそうです。それまで「自分なんかどうなってもいいんだ」とやけになっていたお爺さんでしたが、自分が大切にされている、自分にも来客があると気づいたとたん気持ちが変わったのでしょう。「そういうことがよくあります」とシスターは言っていました。
 このお爺さんは、シスターたちから愛されていることに気付いたとき自分の服装を改めました。愛されているという喜びが、自暴自棄な気持ちを捨てさせ、お爺さんを変えたのです。もしわたしたちも神様からの愛を受け入れるなら、心を喜びで満たされ、それが外見にまで表れるでしょう。
 心の底から神様の愛の招きを受け入れ、あふれるほどの喜びで満たされていることが「天の国」に入るためにどうしても必要だと、このたとえ話はわたしたちに教えてくれているようです。礼服を着て来なかった人は、神様の愛の招きを心から受け入れられなかった人なのかもしれません。心を頑なにして神様の招きを受け止めない人は、自分で自分の手足を縛って闇の中にとどまることになるのです。どんなときでも神様の愛の招きに心から答え、喜びに満たされて「天の国」の婚宴にあずかる客でありたいと思います。
※写真の解説…飛行機の窓から見た雲と海。