2023-01-01から1年間の記事一覧

バイブル・エッセイ(1076)苦しみの絆

苦しみの絆 昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうち…

バイブル・エッセイ(1075)イエスの憤り

イエスの憤り (そのとき、ラザロの)姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによっ…

こころの道しるべ(160)自分らしく

自分らしく のびのびと自分らしく成長できるのは、競争しなくてもよいと知っている人。「自分には自分のよさがあり、相手には相手のよさがある。競いあう理由など何もない」その確信が、自分らしい成長を可能にするのです。 『やさしさの贈り物~日々に寄り…

バイブル・エッセイ(1074)愛に目を開く

愛に目を開く イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行っ…

心の道しるべ(159)幸せに気づく

幸せに気づく 花に感動する心を持つ人は、公園で美しい花と出会ったら、心を震わせ、その日を特別な日と思うでしょう。花に興味がない人は、同じ花を見ても気づかず、「今日もつまらない日だった」と言うかもしれません。幸せとは、そのようなものです。 『…

バイブル・エッセイ(1073)喜びの泉

喜びの泉 そのとき、イエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をく…

こころの道しるべ(158)当然のように

当然のように 人からしてもらったことは決して忘れず、他の誰かが困っていれば自分も同じように助けの手を差し伸べる。人にしてあげたことはすぐに忘れ、相手が感謝してくれなくても決して責めない。それを、当然と思える人になれますように。 『やさしさの…

バイブル・エッセイ(1072)愛の輝き

愛の輝き イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさ…

こころの道しるべ(157)心のサイン

心のサイン 「疲れた」とあえて口に出すのは、「もう限界に近づいている。誰かにいたわってほしい」というサイン。「この人なら、もしかしたらいたわってくれるかもしれない」と思うからこそ発する言葉。その信頼に答えてあげましょう。 『やさしさの贈り物…

バイブル・エッセイ(1071)愛を選び取る

愛を選び取る イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエ…

バイブル・エッセイ(1070)救いの喜び

救いの喜び 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の…

こころの道しるべ(156)人間の限界

人間の限界 普段はすっかり忘れていますが、人間には、先のことがまったく分かりません。明日が当然くるとは限らないし、一分後に起こることさえわたしたちには分からないのです。お互い弱い人間同士、助け合い、支え合って生きてゆけますように。 『やさし…

【講演会in銀座】『あなたはわたしの愛する子』重版刊行記念

『あなたはわたしの愛する子』重版刊行記念講演会 3月14、15日の両日、銀座・教文館にて片柳神父のエッセイ集『あなたはわたしの愛する子』の重版記念の講演会開催。参加無料、要申込。各回とも20名限定。コロナ禍の中で発売されたため、この本についての講…

バイブル・エッセイ(1069)愛にとどまる

愛にとどまる 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には…

こころの道しるべ(155)愛の表現

愛の表現 愛を伝えるための方法は、言葉だけではありません。愛を込めて掃除をすれば、部屋全体を愛で満たし、愛を込めて洗濯すれば、相手を愛で包み込み、愛を込めて調理すれば、愛で相手を生かすことができるのです。 『やさしさの贈り物~日々に寄り添う…

バイブル・エッセイ(1068)神の知恵

神の知恵 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者…

こころの道しるべ(154)祈りの力

祈りの力 祈っても、苦しみがなくなったり、病気がよくなったりすることはないかもしれません。ですが、わたしたちがその人のために絶えず祈っている。祈らずにいられないほどその人を愛しているという事実は、確かにその人を支えるでしょう。 『やさしさの…

バイブル・エッセイ(1067)「升」を取り去る

「升」を取り去る 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れるこ…

こころの道しるべ(153)自分との和解

自分との和解 どんなに高く登っても、幸せにはたどり着けません。上にはさらに上があり、どこまでもきりがないからです。幸せを目指すなら、低いところに下りましょう。自分の弱さを受け入れ、あるがままの自分と和解できたなら、そのとき心は満たされるでし…

バイブル・エッセイ(1066)幸いとは何か

幸いとは何か イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰…

こころの道しるべ(152)自然な姿

自然な姿 自分は汚れていると思えば、自分の目に映るすべてのものも汚れて見えるでしょう。たとえ汚れていたとしても、それが人間として自然な姿であり、それはそれで美しいのだと思えれば、目に映るすべてのものも美しく見えるはずです。 『やさしさの贈り…

バイブル・エッセイ(1065)悔い改めの福音

悔い改めの福音 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブ…

こころの道しるべ(151)本当に強いのは

本当に強いのは 怒りや憎しみ、傲慢は、大きな力で相手を打ち砕きますが、歯止めが利かないために自滅します。ゆるしやいたわり、謙虚さは、大きなぬくもりですべてを包み込み、どこまでも成長してゆきます。本当に強いのは、ゆるしやいたわり、謙虚さなので…

【グレーテルのかまど・再放送】

グレーテルのかまど・再放送 昨年放送されて好評だったNHKの番組『グレーテルのかまど~マザー・テレサのチョコレート』の回が、下記の通り再放送されるそうです。カトリック宇部教会で撮影された片柳神父へのインタビューの場面もところどころに入っていま…

バイブル・エッセイ(1064)神の小羊

神の小羊 そのとき、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことで…

こころの道しるべ(150)気づいて感謝する

気づいてい感謝する 愛されるために必要なのは、自分が愛されていると気づくこと。愛されるのを当たり前と思わず、相手に心から感謝すること。愛に満たされた人とは、ほんの小さな愛にも気づき、感謝して受け止められる人のことです。 『やさしさの贈り物~…

こころの道しるべ(149)人生を知る

人生を知る 人と出会えば出会うほど、それぞれにまったく違った、味わい深い人生があることが分かります。人生を知るとは、人生の正解にたどり着くことではなく、人間の生き方は人それぞれであり、たった一つの正解などないと気づくということなのです。 『…

バイブル・エッセイ(1063)真理を求めて

真理を求めて イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たの…