やぎぃの日記(2) しあわせって何?


 今晩は「やぎぃの会」の定例会があり、25人の若者が教会に集まった。「やぎぃの会」では毎回テーマを決めて分かち合いをするのだが、今回のテーマは「しあわせ」だった。まずわたしが最初にキリスト教が提示する「しあわせ」について簡単に説明し、分かち合いの手がかりになるような短編映画を1本見てもらった。そのあと、4つのグループになって分かち合いをした。わたしはどのグループにも直接参加せず、4つのグループを順次まわって話を聞かせてもらった。最初はとまどっていたグループもあったようだが、体験談や素朴な疑問などを分かち合ううちにしだいに話が盛り上がり始め、活発な分かち合いができたようだった。分かち合いのあと、今週就職が決まってある種の「しあわせ」をつかんだ若者のお祝いも兼ねてイグナチオ・ホールで立食パーティーをした。ピアノと声楽によるモーツァルトの曲の披露もあった。
 いろいろな話を聞き、それぞれとても興味深かったのだが、とりわけ印象に残ったのは阪神大震災の体験談だった。震災によって電気、水道などのライフ・ラインが完全に寸断されたときに、これまで当たり前だと思っていた明かりや水がどれほどありがたいかが分かったという話が何人かの若者から出ていた。ふだんほとんど話すことはないが、神戸の街は今から13年前に地震で壊滅的な打撃を受けたのだ。今回集まった若者たちのほとんどは、あの大震災を体験している。震災後の何もない状態から通常の生活が回復していく過程で、若者たちはたくさんのしあわせを味わったようだ。
 話を聞きながら思ったのだが、人間の困った性質の一つは、何にでも慣れてしまうことではないだろうか。初めは大きな喜びと感動をもって味わった体験も、毎日繰り返されているうちにだんだん最初の味わいを失っていく。もちろんいつも驚いていては生活が混乱するから、慣れることは大切なのだが、慣れによって喜びや感動がなくなっていくのは残念だ。数日ぶりに電気が回復し、電気の明かりが夜の闇を煌々と照らすのを見た人は、喜びと感動で大きなしあわせを味わうだろう。お風呂だって、何日も入れなかった後でようやく入ることができたら、心の底にまで浸み渡るような心地よさを感じさせてくれるだろうと思う。しかし、残念ながらそのようなしあわせは次第に慣れの中に埋没してしまう。しあわせを取り戻すためには、わたしたちの心を何重にも厚く覆ってしまっている慣れの殻を突き破る必要があるようだ。
 わたしの趣味は写真を撮ることだが、レンズを通して世界を見ていると「この世界はなんて美しいんだ」と感動し、喜びで満たされることがたびたびある。普段見慣れている場所でも、レンズを通して一部を切り取ってみると、まったく思いがけない美しさが現れることがある。角度や見方を変えれば、わたしたちの身の回りには神様から与えられたとしかいいようのないほど美しい光景がいたるところにあるような気がする。慣れの殻を突き破って、それに気づくことさえできれば、わたしたちはきっといつでもしあわせを感じることができるだろう。
 自然だけではない。先日、グループホームに入所している90代の信者さんに御聖体を運ばせて頂いたのだが、その信者さんは繰り返し繰り返し「わざわざ来てくださってありがとう」と手を合わせながら感謝してくださった。わたしだけでなく、一緒に行った他の信者さんたちにも同じようにしていた。毎日、グループホームの中だけで退屈ではありませんかとわたしが聞くと、彼女は即座に「こんなわたしのためにたくさんの方が親切にしてくださる。ほんとにありがたいことです。感謝するだけです」と答えた。人の好意を当たり前のこととして受け流さず、一つ一つ丁寧に感謝する心さえ持てるならば、わたしたちも彼女のように毎日をしあわせに生きることができるだろう。
 結局のところ、「しあわせは、すぐ近くにいつでもある」という結論になりそうだ。神様は、美しい自然を通して、人々の優しさを通して、わたしたちに毎日あふれるほどの恵みを与えてくださっている。それに気づき、神様に感謝して喜びの中に生きることができるかどうか、しあわせの鍵はどうやらそのあたりにあるらしい。
※写真の解説…「かなの家」の仲間たちと散歩しているときに見かけた花。朝露を浴びて輝いている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
定例会のレジュメ
1.「しあわせ」とは?
キリスト教の示す幸せ=人間が、創造された究極の目的に到達すること。神を愛し、神の愛に満たされてやすらぐこと。
⇒富、名誉、名声、権力、健康、美、知識、徳などを手に入れることではない。それらを手に入れることで一時的な満足はえられるが、永続的な満足は得られない。さらに、人間の欲望は際限なく膨張する性質を持っている。
2.さまざまな「しあわせ」
(1)アリストテレス
 最高のしあわせ=観想生活、すなわち真理を探究しながら生活すること。
(2)アウグスティヌス
 人間が自分の力で獲得できるしあわせは、すべて不完全なものにすぎない。
 真のしあわせ=神を愛すること。信仰・希望・愛の実践によって、神の愛に到達すること。
(3)トマス・アクィナスアリストテレスの認識論的しあわせと、アウグスティヌスの愛の実感によるしあわせの統合。
 完全なしあわせ=顔と顔を合わせて神を見、神の愛の中でやすらぐこと。
 すべての人間は、神の愛への憧れを心の奥底に抱いている。本人はそれに気づいていなくても。
⇒自分が、ありのままで、心の底から誰かに受け入れられ、愛されることへのあこがれ。
⇒このあこがれが完全に満たされるのは、最終的に神との関係においてだけ。人間はあまりにも移ろいやすい。 cf. E.レヴィナス
3.どうしたら「しあわせ」になれるのか?
キーワード:感謝の心
・わたしたちの身の周りにあるものを、当たり前のものとして自分勝手に使おうとするのか、それとも、神様から与えられた贈り物として感謝しながら大切に使おうとするのか。
・親や友だちが心配してくれた時に、それを当り前のことと考えてもっと心配するように要求するのか、それとも取るに足りない自分にそこまで心をかけてくれることを喜び、感謝するのか。
⇒わたしたちには、すでに十分な恵みが与えられている。それに気づき、それらの恵みを与えてくださった神に感謝して生きることからしあわせが始まるのではないか?
cf.Ⅱコリント12:9「わたしの恵みはあなたに十分だ。」
4.映画『それでも生きる子どもたちへ』より「桑桑と小猫」
・同じ人形が、2人の子どもにとってどれほど違った意味を持ったか。
・豊かさの中で、わたしたちは何かを見失ってしまったのではないだろうか。
⇒人間を越えた何かの前に立って謙虚になること、与えられたものに感謝する心など。