バイブル・エッセイ(943)委ねる愛

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委ねる愛

 モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。(ルカ2:22、39-40)

 ヨセフとマリアの夫婦は、「その子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った」とルカ福音書は記しています。聖家族の絆が、子どもを神に捧げることから始まったというのはとても印象的なことです。子どもにしがみつくことによってではなく、子どもを手放し、神に委ねることから生まれる絆。それこそが聖家族を結ぶ愛の絆だったのです。

 ずっと自分の手元にいてほしい。自分の跡を継ぎ、自分が叶えられなかった夢をかなえてほしい。そのように子どもに願うのは、ある意味で自然なことだと思います。わたしが神父になるために家を出ると決めたときも、家族は強く反対しました。ですが、わたしは、神父になることこそが神様から示された道だと確信していたので、話はいつまでもかみ合うことがありませんでした。

 そんな中で、わたしの話に理解を示してくれたのは祖母でした。祖母は、「何よりも大切なのは、この子が幸せになることだ。この子なら、どんな道に進んでもきっと立派にやり遂げるに違いない」と言って家族を説得してくれました。そのおかげで、わたしは何とか神父への道を歩み始めることができたのです。

 手前味噌な話で申し訳ありませんが、このときの祖母の言葉の中に、神の手にすべてを委ねることによって結ばれる愛の絆、聖家族の間に結ばれた愛の絆を考えるためのヒントがあるように思います。もしわたしたちが子どものことを大切に思うならば、一番大切なのはその子が幸せになることでしょう。幸せとは、その子が神から与えられた自分の道を見つけ出し、その道を歩むことに他なりません。子どもがその道を見つけるのを手伝い、見つけたならば喜んで送り出す。どんなにつらかったとしても、子どもの幸せのために、子どもをそばに置いておきたいという自分の思いを犠牲にする。それこそが、神に委ねる愛、聖家族の愛なのだと思います。

 その愛の土台には、神への信頼、そして子どもへの信頼があります。「自分がついていなければだめだ」と思って子どもにしがみつくのではなく、「神様がついていてくださるなら、何も心配することはない」「この子なら必ず立派にやり遂げるに違いない」、そう信じ、すべてを神の手に委ね、子どもの判断を信じる。聖家族の愛は、神への信頼、お互いへの信頼を土台としたものなのです。

 神の導きと守りを信じ、子どもを信じて、マリアはイエスを宣教の旅に送り出しました。そのとき、マリアとイエスの間に結ばれた愛の絆は、まさに委ねる愛の頂点と言ってよいでしょう。マリアはイエスを神の手に委ねて送り出しましたが、決してイエスを忘れたわけではありません。朝に晩にイエスを思い出し、イエスのために祈り続けていたはずです。イエスもきっと、同じだったでしょう。離れていても、親子の心は堅く結ばれていたのです。

 離れ離れになることは辛いに違いありませんが、近くにいても心がバラバラな家族より、遠く離れていても一つの愛で結ばれた家族の方がずっとよいという考え方もできます。聖家族の模範にならい、神の手にすべてを委ねる愛の絆で結ばれた家族を作ることができるよう祈りましょう。