バイブル・エッセイ(1255)声を聞き分ける

声を聞き分ける

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(ヨハネ10:1-10)

「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける」とイエスは言います。羊飼いはイエスで、羊はわたしたちだと考えていいでしょう。イエスの弟子であるわたしたちに求められているのは、何よりもイエスの声に耳を傾け、その声を聞き分けることなのです。
 イエスの声はどこから聞こえてくるでしょう。イエスはまず、わたしたち自身の心の中から語りかけます。なぜなら、イエスは、わたしたちの心の中に住んでおられるからです。わたしたちの心の奥深くに宿っているやさしい心、苦しんでいる人を放っておくことができず、相手の幸せのために自分を差し出すことさえいとわない純粋な愛、イエスはその中に生きておられます。心の奥深くに宿った愛の声に耳を傾けるとき、わたしたちはイエスの声を聞くことができるのです。
 自分の心と向かい合うとき、たくさんの声が聞こえてきます。「あれもしなければ、これもしなければ」「こんなことをやっている場合ではない」といった、あせりの声。「この人にはもう我慢できない」「なぜこんな人と付き合わなければならないんだ」といった、いらだちの声。「あれも欲しい、これも欲しい」「これさえあればもっと楽になる」といった、欲望の声。そういった声は、とても大きく響いてきますが、残念ながらそれらはイエスの声ではありません。なぜなら、それらの声の中には愛がないからです。
 イエスの声に耳を傾けるためには、あせりやいらだち、欲望を手放す必要があります。そういった思いを、すべて神さまの手に委ねると言ってもいいでしょう。すべてを神さまの手に委ね、「どうかわたしに、あなたの本当の望みを聞かせてください」と祈るとき、心の奥から響いてくる愛の声、それこそがイエスの声なのです。そのようにしてイエスの声を聞き分けるための時間、それこそが祈りの時間だと言ってよいでしょう。
 イエスの声は、周りの人たちを通してもわたしたちに語りかけます。わたしたちを心配する声、いたわりの声の中にはもちろんイエスがおられます。そのような声を聞き分けるのは簡単でしょう。難しいのは、「なぜあなたはそんなことをするんだ」というような、わたしたちをとがめる声の中におられるイエスの声を聞き分けることです。わたしたちはとっさに自分を守ろうとして、「わたしは正しい。あなたは間違っている」という態度をとってしまいがちですが、心を静かにして聞けば、そのような声の中から、「あなたはいま、少し愛から離れているのではありませんか。わたしの愛に立ち戻りなさい」と呼びかけるイエスの声が聞こえてくることがあるのです。
 心を静かにして、相手の言葉を通して語りかけるイエスの声に耳を傾ける。それも祈りだと言っていいでしょう。祈りとは、イエスの声を聞くことであり、祈ることでのみわたしたちは羊飼いであるイエスについていくことができるのです。日々の生活の中で、おりにふれて祈り、自分の心の中から、また周りの人の心の中から語りかけるイエスの声を聞き分けることができますように。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。