バイブル・エッセイ(2) なぜキリストの肉を食べるの?


 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。(ヨハネ6:51-55)
 この箇所を読んでどう思ったかと中高生たちに訊ねたところ、みんな同じように首をひねって「よくわからない」と言っていました。なぜキリストの肉を食べなければいけないのか、よくわからないということです。イエスの身近にいた弟子たちでさえ理解できなかった言葉なので、現代の中高生に理解できないのも無理はないでしょう。
 このイエスの言葉はいろいろな意味で理解できると思いますが、たとえばこう考えてみたらどうでしょうか。わたしたちは朝、パンを食べてから学校や仕事に出かけることがあります。パンの原料は小麦ですが、今ごろ小麦畑に行けば青々とした葉を茂らせた小麦を見ることができるでしょう。小麦はこれから初夏にかけてたくさん雨の水を吸い込み、またさんさんと降り注ぐ太陽の日差しをいっぱいに浴びて育っていきます。そして、初夏には茎がまがってしまうほどたくさんの実をつけるのです。そのような小麦の成長を思い起こすとき、わたしたちは小麦の中にたくましい生命の力が宿っていることに気づくでしょう。小麦から作られたパンを食べるとき、わたしたちはその小麦の力をもらうのだと思います。小麦の力は、消化されたパンと一緒にわたしたちの体のすみずみにまで行きわたり、わたしたちに生きる力を与えてくれます。
 わたしたちが御聖体と呼ぶイエス・キリストの肉には、もっとすごい力がやどっています。イエス・キリストは人間であると同時に神でもあった方なので、その肉には神様の力がやどっているのです。これはすごいことだと思います。あんなに小さなパンの中に、この世界にあるすべてのものを創造した神様の力が一杯につまっているのです。その力を、イエス・キリストの命の力と呼ぶことができるでしょう。キリストの肉を食べるとき、わたしたちはこのキリストの命の力をもらうのだと思います。わたしたちが御聖体をいただくとき、御聖体はわたしたちの体のすみずみにまで行きわたって、わたしたちの体をキリストの命の力で満たしてくださるのです。キリストの命の力がわたしたちの中に宿るならば、どんな疲れも心配も吹き飛んで、生きるための力が体中に感じられることでしょう。この力をいただくために、御聖体を食べるのだとわたしは思います。御聖体を通して体のすみずみにまで全能の神様の力が行きわたるんだと思うと、御聖体を食べるときになんだかドキドキするんじゃないでしょうか。

※写真解説…北海道・富良野地方の小麦畑。麦秋(ばくしゅう)と呼ばれる7月ころに撮影したもの。