バイブル・エッセイ(66) イエスの声


「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
エスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。(ヨハネ10:1-10)

 羊はイエスの声を聞き分け、他の者の声には決してついてくことがありません。ですがわたしたちは、イエスでない者の声に従ってついて行ってしまうことがたびたびあるように思います。
 たとえば、誰かから悪口を言われたときわたしたちの心の中にこんな声が響きます。「あいつなんか顔も見たくない。いなくなってしまえばいい。」この大きな声は一見もっともなのですが、もしこの声に従って歩き始めるとわたしたちは怒りと憎しみの暗闇の中に連れて行かれてしまいます。もう周りにある喜びの光は全く見えなくなり、いつまでも道に迷い続けることになるでしょう。その声はイエスでない者の声、盗賊の声なのです。
 イエスの声はわたしたちの心の奥底から、静かに呼びかけています。「彼があんなことを言っても、それであなたの価値は少しも変わりません。あなたは大切な神様の子どもなのです。」この穏やかな声に従って歩き始めるとき、わたしたちはゆるしと平和の光の中に導かれていきます。初めに起こった怒りの闇は消え失せ、もう道に迷うことはありません。
 このようなことが、日常生活の中でたびたびあるでしょう。仕事や家庭生活がうまくいかないとき、「わたしはもうだめだ。生きている意味がない」という盗賊の大きな声が聞こえてきます。てすが、そんなときイエス「あなたは、あなただというだけで大切な神様の子どもなのです」と静かな声でわたしたちに呼びかけています。「どうせわたしなんか」、「もうどうにでもなれ」、そんな声もきっと盗賊の声です。
 どんなときでもイエスの声だけについていき、盗賊の声からは直ちに逃げ去るようにしたいものです。信頼して身をゆだねれば、イエスは必ずわたしたちを喜びと平安に満ちた緑の牧場に導いてくださいます。
※写真の解説…満開の山つつじ。摩耶山アゴニー坂にて。