
目を覚ますために
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(ルカ12:35-40)
「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」と、イエスが弟子たちに教える場面が読まれました。目を覚ましているのは、主人が必ず帰って来ると信じ、主人の帰りを待ちわびているからだといってよいでしょう。目を覚ましているということは、つまり、主人を信頼し、愛しているということ。だから、目を覚ましているところを見られる僕たちは幸いだとイエスは言うのです。
イエスを信頼し、愛している限り、わたしたちは眠り込むことがありません。もし眠り込むとすれば、それはわたしたちがイエスへの信頼を失い、イエスを愛するのを止めてしまったときだと言ってよいでしょう。残念ながら、わたしたちは、日々の生活の中で眠り込んでしまうことがあります。自分は見捨てられた、自分など神から愛される資格がないと思い込んで心を閉し、神の愛以外のものに救いを求めてしまいがちなのです。神の子として自信を失って、食べたり飲んだり、贅沢をしたり、そのようなことで自分の心を満たそうとしているとき、わたしたちは眠っていると言ってよいでしょう。イエスへの信頼を失うとき、わたしたちは神の子としての本来の姿を見失い、さまざまな欲望によって心をかき乱されるのです。
ではどうしたらイエスへの信頼を取り戻し、目を覚ますことができるのでしょうか。自分が眠り始めているなと思ったとき、わたしは、イエスが自分をどれほど愛してくださっているかを思い出すようにしています。たとえば、わたしはこれほどまでに弱く、罪深い人間なのに、イエスはこんな自分でさえ生かしてくださっている。いま生きているという、このこと自体がイエスの愛の証なのだ。そう思うと、自分がまだ、イエスから愛されているのを思い出すことができます。しかも、ただ生きているだけではありません。イエスはこんなわたしに、司祭としての役割を与え、教会共同体の中に、人間社会の中に、居場所を与えてくださったのです。イエスは、わたしに命を与えてくださっただけでなく、その命を使って輝くための道も準備してくださった。そう思うとき、わたしの目は、もうほとんど開いています。「わたしはイエスに愛されている。イエスを信じ、この道を進んで行こう」と思えるようになるのです。
わたし自身のこととしてお話ししましたが、きっと皆さんにもこの考え方は役に立つでしょう。まず、こうして生きていること、生かされていること自体が神の愛の証なのです。さらに、幸いなことに、わたしたちには果たすべき使命と、自分を受け入れてくれる居場所が与えられています。たとえ体が動かず、みんなのために働くことが出来なかったとしても、わたしたちには、教会の一員として、みんなの幸せのために祈るという使命があります。祈りによって教会と結ばれ、教会の中で居場所を与えられているのです。誰一人、神の愛からはじき出される人はいません。イエスは自分を愛している。わたしは、かけがえのない価値を持った神の子だと信じ、いつも目を覚ましていることができるように、自分にあたえられた使命を果たし続けることができるように祈りましょう。
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