2024-01-01から1年間の記事一覧
初めての体験 歳をとるということは、誰にとっても初めての体験。たとえば七十歳になるときに、「前にも七十歳になったことがあるからよく知っている」といえる人は誰もいません。日々、目の前に広がってゆく新しい世界を、楽しむことができますように。 『…
神の栄光のため ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わた…
身近な奇跡 奇跡なんてありえないと思っていると、身近で起こっている奇跡を見過ごしてしまいます。生命にあふれたこの星が存在すること。たくさんの出会いに恵まれながら、この星の上にいまわたしが生きていること。すべての奇跡に感謝できますように。 『…
誰も見下さない生き方 ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分から…
時間からの解放 永遠とは、気が遠くなるほど長い時間のことではありません。永遠とは、時間から解放されるということ。もはや変わることも、消え去ることもない愛の中で、完全に結ばれるということなのです。この一瞬の中に、永遠を見つけられますように。 …
サタンの罠 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』…
愛が指す方向 先がまったく見通せず、道に迷ってしまいそうなときは、自分の心をしっかり見つめ、心に宿った愛が指し示す方向に進みましょう。やさしさや思いやりに導かれて進んでゆく限り、間違った道に迷い込むことは決してありません。 『やさしさの贈り…
心を開く イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出…
質素に生きる 謙遜からは感謝が、感謝からは幸せが生まれます。傲慢からは不満が、不満からは不幸が生まれます。思い上がった考え方や生活様式を改め、謙虚な心で質素に生きることこそ、幸せに続く最も確かな道なのです。 『やさしさの贈り物~日々に寄り添…
清らかな心で生きる ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人…
祈りは希望 祈るとは、どんなことがあっても最後まで希望を捨てないということ。希望を持って前に進んでゆく限り、必ず出口は見つかります。祈りながら、いま自分にできることを見つけ、いま自分がすべきことをしてゆきましょう。 『やさしさの贈り物~日々…
心を燃やす 弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がも…
相手の下に立つ 人の上に立って威張りたがる人ばかりだと、踏みつけられ、押し潰される人が出てきます。威張りたがるわたしたちの心が、下に置かれた誰かを押し潰すのです。誰もが相手の下に立ち、互いに奉仕する心を持てば、押し潰される人はいなくなるでし…
生きる力 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせること…
喜びの源 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あ…
幸せの感受性 家族や仲間の思いやりに気づいて感謝する心があれば、道端に咲く花や木々の美しさに気づいて感動する心があれば、わたしたちはいつでも幸せになれます。幸せは、手に入れるものではなく、むしろ感じとるもの。「幸せの感受性」を磨きましょう。…
永遠に生きる ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た…
生かされている 自分の力で生きているのではなく、命の力によって生かされているわたしたち。「何のために生きているのか」と自分に問いかけ、答えが見つからないときは、「何のために生かされているのか」と命に問いかけましょう。命には、必ず答えがありま…
なくならない食べ物 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエス…
今日を大切に 今日は元気でも、明日は病に倒れるかもしれないわたしたち。何ひとつ当然のことはありません。家族と一緒にいられること、食事をおいしく食べられること、自分の足で歩けること、すべてに感謝して、一日一日を大切に生きられますように。 『や…
食べきれないほどのパン イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過…
気づいて感謝する 愛されるために必要なのは、自分が愛されていると気づくこと。愛されるのを当たり前と思わず、相手に心から感謝すること。愛に満たされた人とは、ほんの小さな愛にも気づき、感謝して受け止められる人のことです。 『やさしさの贈り物~日…
すべてを可能にする力 使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなか…
楽しさと喜び 遊園地の乗り物や、ゲームで遊んだ楽しさは、終わるとすぐに消えてしまいます。家族や友だちと一緒に過ごした喜びは、終わってもじんわり心を温めてくれます。楽しさは、賑やかに心を通り過ぎますが、喜びは、静かに心を満たしてゆくのです。 …
生き方による証 そのとき、イエスは十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはな…
愛情表現 家族や親友とのあいだでは、ときにわがままも愛情表現。ですが、愛しているのなら、わがままを聞いてくれて当然ということにはなりません。わがままを聞いてくれる相手への感謝を忘れてしまえば、わがままは、ただのわがままでしかないのです。 『…
弱いときにこそ強い イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知…
命と出会う 時間を忘れて花や鳥と向かいあう中で、わたしたちは花や鳥を生かしている命と出会います。そして、自分自身も同じように、命に生かされていることに気づくのです。命とのつながりを取り戻すため、自然と向かいあう時間を大切にしましょう。 『や…
手を置けば生きる イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそう…
質素に生きる 謙遜からは感謝が、 感謝からは幸せが生まれます。傲慢からは不満が、 不満からは不幸が生まれます。思い上がった考え方や生活様式を改め、謙虚な心で質素に生きることこそ、幸せに続く最も確かな道なのです。 『やさしさの贈り物~日々に寄り…