フォト・エッセイ(16) 摩耶の大杉


 先週、摩耶山に向かって青谷道を上っているときに、とてつもなく大きな杉の木と出会った。幹の周りが8メートルもあるという大杉だ。
 それは本当に「出会い」だった。「杉の巨木」という小さな看板に心を惹かれて、どんなものだろうと思いながら脇道を少し入っていくと、そこにその木はいた。まるで歳を重ねた老人が、山から神戸の街を見渡しているところに出くわしたような感じだった。そのあまりに大きな存在感に圧倒され、わたしはしばらくその場から動けなくなってしまった。
 幹をなでたり、写真をとったりしながら、さまざまな思いが脳裏をよぎった。この木はここから1000年ものあいだ神戸の街を見下ろしてきたのだ。源平の武者たちが鬨のの声を上げて戦っているのも、江戸時代の大名行列が粛々と通りすぎるのも、坂本竜馬勝海舟が軍艦の練習をしているのも、爆撃によって街が燃え上がるのも、水害のために人々が逃げまどっているのも、大地震で街が崩れていくのも、そして人々の力によって街が再び復興していくのも、この木はじっと黙ってここから見ていたのだ。いったいどんな思いで、この木は人間たちの喜びや悲しみを見つめ続けてきたのだろうか。目的地は森林植物園だったので、10分ほどそこにとどまってからその木と別れた。「必ずまた会いに来ます」と、心の中で言わずにいられなかった。
 先日、教会学校の子どもたちと一緒に「わたしたちの心に播かれたイエス様の愛の種が育ったらどんな木になるか」というテーマで絵を描いたときに、しばらく考えてわたしはあの木の絵を描いた。わたしもあの木のようになれたらいいなぁという願いを込めてのことだ。人々の喜びも悲しみも優しく受け止めながら、ただまっすぐに天を目指して伸びていくあの杉の巨木のように、わたしも司祭として育っていきたいものだと心から思う。決して揺るがない信仰の根を張り、そばにいるだけで人を安心させるようなどっしりとした幹を持ち、人々を憩わせるための枝をたくさん伸ばし、永遠を指し示すような年輪を刻みながら、ただまっすぐに「神の国」を目指して伸びていくことができたらどんなにいいだろうか。
 だが、残念ながら今のわたしはまだあまりに頼りない若木にすぎない。教会の多くの人々に支えられて、ようやくなんとか立っている。祈りの中で、まずしっかりと信仰の根を伸ばしていきたいものだと思う。育っていく木に水をやるようなつもりで、どうかみなさんもこの若木のためにお祈りください。




※写真の解説…1枚目が摩耶の大杉。2枚目は青谷道と路傍のアジサイ。3枚目は徳川道の杉木立。