
いつまでも感謝する
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ17:11-19)
身体を清めてもらったことに感謝し、大きな声で神を賛美する人に、イエスが、「あなたの信仰があなたを救った」と語りかける場面が読まれました。身体を清められた人は10人いたけれども、救われたのは、神への感謝を忘れなかったこの人だけだったと考えてよいでしょう。この人は、身体を清められたということよりも、むしろ、その出来事を通して神さまと深く結ばれたことによって救われたのです。
「のど元過ぎれば熱さを忘れる」と言いますが、苦しいときには真剣に神に祈るけれども、苦しみが取り去られるとそのことはすっかり忘れてしまい、神に感謝しなくなるということはよくあります。たとえば、わたしは神学生の最終段階で、イエズス会の長上に叙階の願いを出したとき、「神さま、どうかわたしを神父にしてください」と真剣に祈りました。お陰様でなんとか叙階は認められたのですが、しばらくすると自分が神父であることを当たり前だと思うようになり、神さまに感謝することがなくなってきました。それどころか、「神さま、なぜわたしがこんな苦しい思いをしなければならないのですか」と不満を言うようにさえなったのです。
若干、話を単純にしてありますが、これなどは、神さまに助けられたけれども、救われなかったということのよい例でしょう。さすがのわたしも、叙階から3年したころに受けた第三修練という養成プログラムの中で、「これではいけない」と気づき、折に触れて叙階の恵みに感謝するようになりました。「こんなわたしが、神父になれただけでもありがたいことだ」と思って、神さまに感謝するようになったのです。そのような気持を忘れない限り、わたしは神父していただくことで、神さまに救われた言うことができます。救われるために何より大切なのは、謙虚な心で神さまに感謝し続けることなのです。
その意味で、預言者エリシャに癒されたシリア人、ナアマンのとった態度は賢明だと思います。ナアマンがエリシャに「らば二頭に負わせることができるほどの土」を願ったと書かれていますが、それはその土を土台として祭壇を造るためだったのです。自分が癒された場所の土は、いつでも鮮明に、癒されたときの喜びを思い出させてくれるでしょう。思い出し、感謝し続けることで、ナアマンは神さまと固くむすばれ、救いの恵みにあずかったのです。
思い出して感謝すること、いつまでも忘れずに感謝し続けること。これは、キリスト教の信仰の原点だと言ってよいでしょう。ミサに与るとき、わたしたちは、イエスがわたしたちのために十字架にかけられ、復活したこと。それほどまでにわたしたちを愛し、身をもってその愛を示してくださったことを思い出し、心からの感謝を捧げます。そうすることによって、救いの恵みを新たにし、神の子として生きる喜びに満たされるのです。神さまに愛されていることを当たり前と思うようになり、もっと多くを要求し始めるとき、わたしたちは迷いの道に入り込みます。「神さまは、こんなわたしでさえ愛し、たくさんの恵みを与えてくださる」、そのことを深く心に刻み、救いの恵みに感謝して祈りましょう。
※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。
