バイブル・エッセイ(1193)お兄さんの救い

お兄さんの救い

「兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」(ルカ15:25-32)

 放蕩の限りを尽くして財産を使い果たし、ぼろぼろになって帰ってきた息子を、父親があたたかく迎え入れる「放蕩息子のたとえ」が読まれました。「こんな堅苦しくて地味な生活はいやだ」と神さまの家、教会での生活から飛び出したことがある人。結果として、嫉妬や欲望のうずまく現実社会でぼろぼろになり、自分の間違いに気づいて教会に戻ってきたことがあるような人は、きっと、自分を放蕩息子と重ね、涙を流しながらこの話を読むでしょう。しかし、中には、お兄さんと自分を重ねて読み、「なんてひどい父親だ」と怒り出す人もいます。「これでは、お兄さんが救われないではないか」というのです。いったい、お兄さんの救いはどこにあるのでしょう。
「わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」というお兄さんの言葉の中に、手掛かりがあると思います。自分はいろいろなことを我慢して一生懸命働いてきたのに、子山羊一匹さえもらったことがない。しかし、放蕩の挙句に財産を使い果たした弟は、肥えた子牛を焼いてもらっている。「なんと不公平な。この父親も弟も、絶対にゆるせない」というのが、このお兄さんの怒りなのです。気持ちは分かる気がしますが、この怒り方を見ると、このお兄さんにも何か問題があるような気がします。自分がこれまで親から受けた恩をすっかり忘れて、「こんな父親はゆるせない」というのは果たしてどうなのかという気がするからです。
 そんなお兄さんに向かって、父親はやさしく語りかけます。「お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」というのです。「お前はいつもわたしと一緒にいる」というのは、父親から与えられた使命をしっかりと受け止め、日々、父親と心を一つにして働いているということ。「わたしのものは全部お前のものだ」というのは、すべてを差し出しても惜しく無いくらい、お兄さんを愛しているということでしょう。この父親の愛に気づき、その愛の前には子牛一匹くらいなんでもないと思えるようになること。そして、子牛一匹にこだわった自分の頑なさに気づいて父親と、そして弟と和解すること。そこに兄の救いがあるのは明らかです。
 わたしたち人間は、自分が恵まれていないと感じるとき、他の恵まれている人に嫉妬するようです。もし「放蕩息子のたとえ」を読んで怠け者の弟やお人よしの父親に怒りを覚え、兄の方に共感したなら、もしかすると、それは自分がいまどれだけ恵まれているか。神から与えられた使命を決して見失うことなく、日々、自分の使命を果たして生きられることがどれほどすばらしいことかを忘れているからかもしれません。自分の使命を見失わないこと、「自分はこのために生まれてきたんだ。今日も一日、生きられてよかった」と毎日感謝しながら生きることに比べたら、弟が味わったような一時の贅沢や快楽など、まったく取るに足りないと気づく必要があるでしょう。そのようなものをうらやむより、神さまが日々与えてくださる恵みに感謝することができるように。このお兄さんと一緒に、父なる神さまと和解することができるように、心を合わせて祈りましょう。

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