講演全体を通して強く印象に残ったのは、大木神父のまったく妥協のない生き方だ。司祭召命を確認するためにあえて自分を死地に追い込み、生き残って神の御旨が確認されるや生涯その召命を一途に貫き通す、これほど鮮烈な召命の話を聞いたことがない。まるで旧約聖書の預言者のようだ。大木神父の召命を祈りで支えるために、大木家の6人の姉妹が修道女になったという話も、司祭召命の尊さを際立たせている。
司祭になってからの生き方にも、まったく妥協が感じられない。50歳を過ぎてから言葉も文化もまったく違う地での宣教を志願し、32年も働いて帰ってくるなどというのは、誰にでもできることではない。まったく筋金入りのイエズス会員だ。今は宣教師としての仕事を終えて帰国されたが、もはや大木神父の存在そのものが福音の揺るがぬ証として立派な宣教になっている。
話を聞いて、日々妥協だらけの生ぬるい生活をしているわたしは、自分がとても恥ずかしくなった。わたしの存在は果たして福音宣教になっているのだろうか、真剣に問い直さざるをえない。
※写真の解説…1枚目、身ぶりを交えて会衆に語りかける大木神父。2枚目、大木神父を囲んでの懇親会。