マニラ日記(50)アリアワン村での葬儀ミサⅠ〜戦争の名残


2010年12月24日(金) アリアワン村での葬儀ミサ
戦争の名残
 先日、84歳で帰天した女性の葬儀ミサが行われることになったのでアリアワン村まで行ってきた。この女性の孫であるパラセリス教会の主任司祭、ディン神父も忙しい予定をやりくりしてやって来たので、ミサは3人での共同司式になった。
 ミサが始まる前に、先日出会ったアベ婦人がご主人を紹介してくれた。元日本兵アベ・キサクさんの孫である、プッポ・アベさんだ。50歳位のとても人懐っこい男性で、にっこり笑った口から覗く歯はべテル(噛みタバコ)で真っ赤に染まっていた。言われなければ、日本人の混血とはまったくわからないくらい現地人と同じ顔立ちだ。棚田で稲作をしながら、ときどき町に出稼ぎに行ったりして家族を養っている。
 祖父のキサク氏は戦後日本に戻らずに現地の女性と結婚し、大工をしながらこの地で天寿を全うしたのだという。 プッポさんのお兄さんや従弟の何人かは日本に住んでいるが、プッポさん自身は日本に行ったこともないし、日本語もまったくわからないとのことだった。「いつか日本に行ってみたいですか」と尋ねると、「いや、わたしはここの生活で満足しているからもういいよ」との答えが返ってきた。
 プッポさんと話し終った時、信者さんの1人が手を引いてわたしを教会の鐘の前まで案内し、鐘の由来を説明してくれた。円筒形で直径20㎝、長さ50㎝ほどのこの鐘は、教会を建てるための地ならしをしているときに掘り出されたのだという。この地域に駐屯していた日本軍の爆弾の一部に違いないと、その人は説明してくれた。米軍のものである可能性も否定できないが、戦争の遺物であることは間違いないだろう。
 この地方は日本軍が最初に占領し、また最後まで残って戦った場所なので、今でもあちこちに戦争の名残がある。朝のミサに集まる老人たちからも、すでにたびたび日本軍政時代の話を聞かされた。宮城遥拝のことや日本語の授業のことを、今ではいい思い出のようにして話してくれたが、聞いているわたしとしては複雑な心境だ。
※写真の解説…アリアワン教会の鐘。