バイブル・エッセイ(270)生きる力


生きる力
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。(ヨハネ3:16-21)
 光よりも闇を好むならば、そのこと自体が裁きだとイエスは言います。悪に対して妥協を続け、やがて心を闇が覆い尽くすとき、その人は本当の命を失うことになる。それ自体が裁きだということでしょう。
 最近、こんな話を聞きました。阪神淡路大震災によって財産を失い、釜ヶ崎でホームレスになったピアノ教師(仮にAさんとしましょう)の話です。子どもの頃から音楽が大好きだったAさんは、親の反対を押し切って音楽家の道に進み、神戸でピアノ教室を経営していました。しかし、震災によって教室は全壊。Aさんは職を転々とすることになります。年齢が高く音楽以外の仕事の経験がないこともあって、仕事を変わるごとに次の職を得るのは難しくなり、最後に彼が見つけたのは中古のピアノを販売する仕事でした。高給に惹かれてその職についたAさんでしたが、何とその店は古いピアノをただ同然で引き取り、外側だけきれいにして高額で売りつける悪徳業者だったのです。「こんな店で買ってはいけない」という言葉を呑みこみながら我慢して売り込みを続けたAさんでしたが、やがて心が折れて仕事を辞めることになります。その後、Aさんは再び仕事につく気力をなくし、家族にも見捨てられてホームレスになっていきました。
 おそらく彼にとって音楽こそが人生を導く光であり、生きる力だったのでしょう。しかし、生きるためにと妥協を続けるうちに、彼は音楽を傷つけ、ひどく損なってしまったようです。生きるためにと妥協を続けるうちに、人生を導く光、生きる力そのものを傷つけ、失ってしまったのです。
 とても考えさせられる話です。わたしたち一人一人にも、きっと人生を導く光、生きる力そのものであるような大切な何かがあるでしょう。生きるためにと妥協を続け、その光を曇らせるとき、わたしたちは生きる力を少しずつ失っていきます。そして、ついにその光が闇に覆い尽くされたとき、わたしたちは生きることができなくなってしまうのです。
 人生を導く光、ある人にとってそれは貧しい人への奉仕、正義の実現、質素な生活、あるいは家族の愛情であるかもしれません。キリスト教徒であるわたしたちにとって、その光はイエス・キリストの教えそのものだと言ってもいいでしょう。さまざまな理由をつけて妥協を重ねることでそれらを傷つけ、光を損なってしまうことがないようにしたいと思います。わたしたちにとって生きる力そのものであるその光を大切に守り続ける限り、わたしたちは「神の国」へと続く道を、どこまでもまっすぐに、力強く歩き続けることができるでしょう。
★Aさんのその後について興味がある方は、『釜ヶ崎有情』(講談社刊)をご参照ください。

釜ケ崎有情 すべてのものが流れ着く海のような街で

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※写真の解説…京都、東山にて。