バイブル・エッセイ(373)全知全能の夢


全知全能の夢
「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタイ24:37-44)
 「目を覚ましていなさい」とイエスは言います。いつ主人が返ってくるか分からないのだから、だらしなく眠りこけていてはいけないというのです。実際、わたしたちは神の姿が見えななのをいいことに、眠りこけていることが多いように思います。眠りこけ、夢を見ているのです。その夢の中で、わたしたちはすべてを知っており、完全無欠な存在です。わたしたちは、まるで自分自身を神のようにみなす夢、全知全能の夢を見ているのです。
 全知全能の夢を見ている人は、すべてを知っていると思っているので、日々の生活の中で神がどれだけたくさんわたしたちに新しい恵みを届けてくれても、それに気づくことができません。どんな出来事が起こっても、すぐに「要するにこれは〇〇だ」と言い、どんな人と出会っても、すぐに「あの人は結局のところ××だ」と決めつけてしまうからです。神が出来事や出会いを通してわたしたちのもとを訪れ、豊かな恵みを注いでくださっても、このような人にはその恵みが届きません。どれほど新しくて驚くべき現実も、自分の貧弱な知識や体験の中におしこめてしまうからです。「いつもの□□だ」とか「ただの△△」だというような考え方をする人も同じです。道端に咲いている花や公園の木々は、日々新しい神の恵みをわたしたちに届けてくれますが、「いつもの花だ」、「ただの木だ」と思ってしまえば、その恵みを受け取ることは決してできないのです。こうして、すべてを知っていると思い込んでいる人、全知全能の夢を見ている人は、深い眠りの中で神の恵みを見落としてしまうのです。
 全知全能の夢を見ている人は、自分が完全だと思い込んで、人の悪口を言います。自分のことはすっかり棚に上げ、自分にはまるで落ち度がないかのように人を批判し始めるのです。人の悪口を言うとき、わたしたちは自分は完全だという夢を見ているのです。このような人は、会社や教会、仲間たちを批判するばかりで、自分自身の落ち度を認めて成長しようとは決してしません。神がわたしたちのもとを訪れ、すばらしい成長の機会を与えて下さっても、自分は完全だという夢を見ている人はその機会を見過ごしてしまうのです。実際には、何か問題が起こったときに、どちらか一方だけが正しく、一方が完全に間違っているということはめったにありません。全知全能の夢を見ている人は、その現実に目を閉ざし、眠りこけているのです。
 「目を覚ましている」とは、全知全能の夢から目を覚ますということに他なりません。自分はこの世のことについてほとんど何も知らない、神のなさることはわたしたちの理解をはるかに越えているという事実に目を覚まし、出来事や出会いを通してわたしたちに届けられる神のメッセージに気づくこと。自分は不完全な人間で、人を裁くには値しないという事実に目を覚まし、謙遜な心で自らの落ち度を認めて成長すること。それこそが、「目を覚ましている」ということなのです。神が与えて下さる恵みを見落とさないように、イエスの訪れを見過ごしてしまうことがないように、「目を覚まして」この待降節を過ごしましょう。 
※写真…六甲教会の庭にて。銀杏の落ち葉。